日常に海がある生活
黒沢さん一家が暮らす天草市高浜地区は有田焼の原料にも使われる天草陶石が産出される地域であり、その陶石を使った高浜焼で知られています。天草市の西海岸に面していて、漁業やマリンスポーツも盛んです。ウミガメが産卵に訪れるという白鶴浜海水浴場から徒歩1分、絶好のロケーションにある元は海の休憩所だった一軒家が黒沢さん一家のご自宅です。 ダイニングの窓から聞こえてくる波音は海が間近にあることを感じさせてくれます。波のある日には、省吾さんは趣味のサーフィンを気軽に楽しむことができ、子どもたちにとっても格好の遊び場です。 「家から裸足で歩いて行けるし、ほとんど人がいないからプライベートビーチみたい。贅沢でしょう。子どもたちはこっちに来て海の生き物にも詳しくなったみたいです。」
▲砂浜で裸足のまま遊ぶ三男湊くん(左)、次男睦くん
いただき物はトロ箱いっぱいの魚
生活が海と密着していることはご近所さんからのいただき物でも分かります。 「朝、出掛けにトロ箱いっぱいの魚をもらい、その日の予定が変わってしまうこともあります。1、2日じゃ食べきれないくらいの量をいただくこともありました。保存するためには、すぐにさばかないといけません。専用の冷凍庫が欲しいくらいですね。」 出掛けるのをやめてキッチンにUターンして魚をさばく、そんな朝の光景は漁師町ならではと、三穂さんが教えてくれました。
天草で食べられる地の食材は新鮮な海の幸だけではありません。昨年は省吾さんが作った米で1年間自給することができました。 「畑の野菜で足りない分を、無人販売所で買い足すと、ほぼ地元産の食材で料理ができます。」 それこそが黒沢さん夫妻の望んだ食卓でした。
移住前に神奈川で生活したころに比べると、買い物に不便ではないかと尋ねると、 「店はほとんどないけど、あまり不都合に感じることもなくなりました。コンビニに行くのはATMを利用するくらいです。行くまでに車で40、50分かかりますけどね。」 と、省吾さんは笑います。
移住をきっかけに心も体にも訪れた変化
食生活の変化は体調にも影響があったそうです。 「長男(丘くん)の小児ぜんそくが天草に来て1年くらいで治りました。環境が変わって、私自身も花粉症が軽くなりました。」と省吾さん。 肌のトラブルに悩まされていた三穂さんも症状から解放されたといいます。 「神奈川にいた時は、次男と私に原因の分からない湿疹や肌荒れが出ていたんですが、移住してきれいになくなりました。何のおかげかはよく分かりませんけどね。子どもたちの食べるご飯の量が増えたり、風邪を引かなくなったりと、ここまで変わるとは思いませんでした。天草に来て本当によかったです。」
収入激減でも求めた安全な食
順調に思える天草での日々ですが、初めからうまくいっていたわけではありません。首都圏で庭師をしていた省吾さんは、移住当初は働き口を探すところからのスタートでした。だんだんと植木や庭木の剪定などの仕事を受けるようになってきましたが、収入が以前の3分の1くらいに減った時期もあったといいます。時間が経つにつれ、省吾さんの仕事が安定し、以前アロマサロンで仕事をしていた三穂さんがインストラクターの資格を取って働きはじめ、地域に根を張り始めているところです。
黒沢さんが一家での移住を考えるようになったきっかけは東日本大震災の経験でした。三穂さんは、2011年秋に移住先を調べ出した当時のことをこう振り返ります。 「子どもたちの食べるものについて、それまで以上にちゃんとしたものを食べさせたいと強く考えるようになりました。あの頃は安全なものを買ってきて生活するだけでも疲れ果てていました。」 流通が高度に発達した都市部は何でも手に入る反面、どこの食品なのかをひとつずつ調べ、何を食べて、何を食べないのかを選択しなくてはなりません。住んでいる土地のものをそのまま食べられる。そんなシンプルな暮らしを送り、食に対するリスクやストレスを最小限に抑えたい。それが移住のモチベーションとなりました。だから仕事を辞めて住み慣れた首都圏を離れることに迷いはありませんでした。 「会社員でもないし、仕事はなんとかなると思っていました。それよりも早く移住したいという気持ちが強かったですね。」
▲黒沢さん宅。当時の看板がそのまま残っています。
2012年の年明けには移住先を天草に絞り込みました。移住者への支援制度として、移住した一世帯当たり最高で20万円の奨励金が申請によって助成され、空き家の改修には上限100万円の補助金がつくなど、黒沢さん夫婦が検討していた他の候補地よりも支援が充実していたそうです。 「天草市の移住担当職員だけでなく、訪れた先の役所の方々・学校関係者の対応がとても親身で安心できたことは今でも忘れません。」と三穂さんは移住を決めた時の気持ちを話してくれました。 まちの下見や空き家の内見で高浜地区を訪れた際に、雲の切れ間から陽光が帯状に降り注ぐ様子(ヤコブス・ラダー)に何度も遭遇し、あらためて天草に移住する気持ちを固めていったようです。
▲食堂だった1階はDIYでダイニングキッチンに改装
4年前に自分たちが受けた歓迎を、今度は新しい移住者に
移住直前に、一家で家の掃除にやって来た時、自宅にはまだガスが通っておらずお風呂に入れなかったため、近くにある下田温泉へと足を伸ばしました。その際に夕食に立ち寄った飲食店で印象的な出来事がありました。 「お店のお母さんが、『来てくれてありがとう。住んでくれるの?ありがとう』と声をかけられたんです。そんなこと言ってもらえるなんて想像もしませんでした。」三穂さんは振り返ります。 それから4年の歳月がたち、黒沢さん夫婦も今では移住者を受け入れる側になりました。 「あの時、温かく迎えてくれたことが本当に嬉しかったです。今では、移住してくる方やその家族がいると、私たちも喜ぶ側です。喜んでもらえた理由も、今なら分かる気がします。」 次男の睦くんが通う天草小学校は、3年前に5校が統合し開校した学校です。それでも全児童数は100人足らず。だからこそ、にぎやかな学校生活を送ってほしい、まちに子どもたちの声が響いてほしい、というのは地域みんなの切実な願いなのだそうです。
都市部のように人口が密集していないので、地域では濃密な人間関係が築かれます。関係性になじめず、再び別の地へ移住していく人もいます。天草に来て間もないころ、省吾さんは地元の方達からアドバイスを受けたそうです。 「『2年は常に周りから見られていると思え』と教わりました。そうした意識は今もありますし、見ていただけているというのは、地域の方々にしっかり見守ってもらえているということなので、ありがたいです。」 時には迷うことや苦労することもあるそうですが、そんな時は初心に戻ります。
「受け入れてもらえたことへの感謝の気持ちを思い出すようにしています。」 という三穂さんの言葉に省吾さんがうなずきます。すっかり地域に溶け込んだ黒沢さん夫婦は、子どもたちに「お父さん、お母さんはずっとここにいるから」と話しているそうです。 「子どもたちが都会に行きたい、田舎は嫌だって思う日がいつか来るかもしれない。それで、1度天草を出ていくのはいろんなことを知るいい機会。」と省吾さん。三穂さんがこう付け加えます。 「天草は出て行った後に戻って来ても、新しいことができる場所だと思います。都会のように個人が埋没することもないし、やりたいことがはっきり見えてきますよ。」嬉しそうな表情には、思い描いていた暮らしを手にした喜びが滲んでいました。
黒沢さん夫妻は、家族の居場所を守り続けるため、夫婦で新しい仕事の構想を練っています。庭師の省吾さんとアロマを生業とする三穂さんに共通するのは植物。自宅の1階を改修し、育てた植物の展示や販売、植物から採油される天然のアロマが特別なものでなく生活の一部になるような提案の場にしたり、自分で庭に手を加えることの楽しさを提案していく予定です。 「昔から2人の共通点を生かしたいと思っていたことはありました。でも、ぼんやりと思っていただけです。実際に新しいことを始めようと考えられるようになったのは、天草という土地のおかげ。」と三穂さんはいいます。地域に深く根を張った暮らしはきっと、大きな実を結ぶことでしょう。