その特徴的な形から「マサカリ半島」とも呼ばれる青森県下北半島。その半島内にあるむつ市大畑地区(旧大畑町)で生まれた私は、半島ならではの「行き止まり感」や「何もない感」を幼い頃から感じていました。私は「ここにはない何かが都会にはあるに違いない」と思い、以来18年間東京で生活していました。
2011年に東日本大震災が発災し、気づけば私は東北に向かっていました。とはいえ向かったのは被害の大きかった東北三県(岩手県・宮城県・福島県)ではなく、生まれ故郷である下北半島だったのです。18年ぶりに腰を据えて向き合った下北半島は「驚きと発見の連続」でした。
海上交通がもたらした多様な風土・地域性
まずはその「海とともに生きてきた」歴史。
下北半島は四方を津軽海峡、太平洋、陸奥湾、平舘海峡に囲まれているため、この半島には海伝いに全国各地から人々が移り住み、それぞれの文化や言葉を持ち込みました。三国・越前・能登などの名字はそれぞれのかつての出身地を示しています。
私が住むむつ市大畑地区では三国商人が台頭し、田名部地区では近江商人が活躍したと言われています。こういった経緯があるため、下北半島各地の歴史や背景は一様ではなく、それぞれの地区に多様な風土・地域性があるのです。
江戸時代のはじめから、下北半島の北前船は、北海道回り・西回り・東回りで多くの港とつながっていました。そしてそれらの港からは全国のもの珍しい文物が流入し、龍神様や海上守護の女神であり中国の外来神である天妃様(媽祖)などの神仏、祭り文化、年中行事・芸能・衣食住・経済制度などが下北半島の暮らし・文化を形作っていきました。
「かさまい(来なさい)」「のまさまい(飲んでください)」といった下北半島の方言は、京都ことばに由来すると言われています。古くから海上の道は下北にとって、生活の糧を恵むものであり、文化を運ぶものであったのです。これらの歴史を知った時、下北半島は後進的な土地であると見なしていた己の不明を恥じたのです。
森とともに生きる半島
次に自然資源。北前船航路では、大畑、大間、奥戸、佐井、牛滝、川内、安渡(大湊)といった下北半島の港からヒバ材が北陸、深川(江戸)へと積み出されました。また、下北半島の大半を、ヒバが産出される森林が占めており、古くから山子(杣夫)が躍動していました。
下北半島は海とともに生きる半島でもあり、また、森とともに生きる半島と言っていいでしょう。
青森のヒバは日本三大美林の一つに数えられ、抗菌力に優れ、シロアリに強く、またその強い香りはリラクゼーション効果があるとされています。そのため、平泉・中尊寺金色堂や錦帯橋などの歴史的建造物に多く用いられています。私の実家をはじめ、下北半島の多くの家庭では青森ヒバのまな板があたりまえのように使われています。私自身青森ヒバの価値を十分認識していませんでしたが、知れば知るほどその価値は世界に誇ることのできるものでした。
伝統芸能・文化のガラパゴス
さらには伝統芸能・文化。明治時代に北前船航路が廃止されたのちは海路での交流が希薄となり、結果として下北半島には様々伝統芸能・文化がガラパゴスのように保全されました。とりわけ、修験が伝えたとされる能舞や神楽、近江商人の出身地である滋賀県などを経由して祇園祭が下北半島にも伝わって生まれた山車祭などが特徴的です。
また、下北半島は江戸時代に南部藩が支配していたにもかかわらず、津軽藩で盛んであった「ねぶた」がむつ市大湊地区や大畑地区に今も残っています。それらの特徴的な伝統芸能・文化は令和となった今でも脈々と各地域で受け継がれています。Uターンしてきた私にとっては、それらの伝統芸能・文化が輝いて見えました。
2015年(平成27年)にむつ市大畑地区にある薬研温泉が開湯400年の節目を迎えると知った私は、同級生たちと地域づくりグループを旗揚げし、地域内外の人々が交流する中で、地域の伝統文化を新しい切り口で紹介する祭り「ミナカダ祭」を主催し、多くの来場者とともに、薬研の森の中で地域の宝の価値を再確認することができました。
海と生きる『まさかり』の大地
古くから下北半島には客(まろうど)たちが多く足を運びました。円空・木喰(もくじき)・菅江真澄・近藤重蔵・間宮林蔵などの旅人は多くの文物を下北半島の人々に伝え、下北半島の人や風土に与えた影響は計り知れないものがあります。
土は風があって初めて耕される。
私は風土の風と土の関係をそのように考えています。2016年(平成28年)、恐山や仏ヶ浦などの地質資源が豊富な下北半島は下北ジオパークとして日本ジオパークネットワークに認定されました。そして、そのテーマは「海と生きる『まさかり』の大地 ~本州最北の地に守り継がれる文化と信仰~」。そのテーマのもと集う人々同士の交流が下北半島の風土をより豊かにしてくれることを願っています。