Uターンの理由は、奥さんとの出会い
来間さんは一級建築士の資格をもつ建築家で、市内で「クルマナオキ建築設計事務所」を営んでいる。米子市に生まれ、19歳で上京。大学で建築を学び、卒業後は東京の建築設計事務所で働いた。2001年には東京で個人事務所を始め、東京で仕事を続けていたという。
そんな来間さんが米子に戻るきっかけとなったのは、前の職場の先輩で、同じく米子の出身の建築士の方からの誘いだった。「こっちで米子建築塾を始めたけれど、参加してみない?」。そう誘われた来間さんは、米子に帰省した際、活動に参加した。
「建築塾の立ち上げは2003年だったんですけれど、僕は2004年から参加しました。その翌年の2005年に結婚したんですけれども、実は妻とは、この建築塾で知り合いました。妻は米子高専という学校で、建築を教える仕事をしていたんです。」
建築塾で生まれた運命の出会い。この時、来間さんにはふたつの選択肢があった。
「僕も東京である程度仕事をしていたので、妻が東京に来るっていう選択肢も、もちろんありました。でも、みんな進学や就職で、外に出て行ってしまう中で、地方都市に外から来る人材ってすごく重要じゃないですか。彼女は大阪出身で、米子の高専で仕事をすることになって、Iターンでここに来ていたんです。そういう人材をまた外に出しちゃうのは良くないな、という意識もありました。」
「で、まあ、僕が動いたほうが簡単だな、と思いまして。米子出身者でもあるし、両親もいるので。東京にいるぼくらの世代って、将来あるかもしれない親の介護とか、そういうことにフタをして、来ているという方も多いと思うんです。だからそういうこともちょっと頭をよぎって。これを機にUターンするのもいいかな、と思ったんですね。」
あっけらかんと経緯を話す来間さんだが、十数年かけて育ててきた東京の人脈を整理し、仕事を引き継ぎ、米子に拠点を移すということは、相当な決心と労力が必要だったに違いない。
「さすがにすぐ戻るということはできなくて、妻とは1年くらい“別居結婚”だったんです。でも、子どもが生まれたのを機に、完全にこっちに戻ってきました。」
切磋琢磨の場として生まれた「米子建築塾」
こうして結婚を機に故郷へUターンした来間さん。本業のかたわら、ご夫婦で「米子建築塾」の活動に取り組むわけだが、そもそも「米子建築塾」とは何なのだろうか?
▲米子建築塾がAIR475において拠点として利用している空き店舗
「建築というのはその場所に長く存在するものなので、ある程度“社会性”をもつ必要があると思うんですね。我々はつねにそういう意識を持ちながら建築を作っているんですが、いざ振り返って街の中を見てみると、なかなかそういう建築ばかりではないな、という現実もあるんです。」
「経済行為の中で量産されている建築もあったり、必ずしも質についてこだわっていなかったり。そういうことに問題意識を持っている建築家が集まって、勉強会というか、愚痴を言っていたのが始まりなんじゃないかと思います。メンバーは鳥取県西部の建築家や、建築関係の学校の教員などが中心で、今は10人くらいです。」
そして彼らの活動は徐々に幅を広げていく。
「愚痴を言ってばかりいてもしょうがないですから、みんなで何か活動をしようってことで、まず最初にやったのは自分たちの作品展でした。たとえば、公共空間の新しい使い方を提案するコラージュを考えて展示したり、カルチャーセンターで一般の方向けの建築講座をして、街に実際に建築物を見に行ったり、建築に関するトークイベントをやったり。」
▲米子建築塾の活動内容を紹介するチラシ
「昨年がちょうど10周年だったんですが、この時には美術館の中に仕事場を作って、そこで仕事をやるっていう展示もしましたね。自分たちが展示物になって、“建築家というのはこんなことを考えてるんだ”ということを展示したんです。」
街の魅力を再発見させてくれる、アートの効果
建築家としての活動に取り組む一方で、来間さんたちが新たに注目したのは「アートを使った街の再生」だった。
米子建築塾の活動の一環として、3年前から『アーティスト・イン・レジデンス米子』(AIR475)の活動に取り組んでいる。これは、アーティストの方が米子に一定期間滞在し、地域の自然、歴史、文化などとの関わりの中で作品をつくっていくという活動だ。
来間さんたちは、この活動を街の再発見につなげていきたいと考えているそうだ。
「田舎の人ってよく、自分たちの街には何も無いね、ということを言うんですが、実際そんなことは全然ないんですね。だからそういう地元の方にも、地元の魅力を再発見してもらう手助けになるかな、と思いまして。」
『AIR475(エアよなご)』は2013、14年と開催し、今年の11月が3回目になるという。1回目は若手美術作家の戸井田雄氏を招き、本通り商店街の脇道、本町横丁名店街で空き店舗を使ったアート作品を発表した。2回目は戸井田氏に加え、バンクーバーから2名のアーティストを呼び、中海の夕暮れにバンクーバーの夜明けを合わせて投影するという映像作品や、加茂川で船に乗りながら、小説の朗読を楽しむという作品が発表された。3回目となる2015年は、作品の一つに、空港近くの耕作放棄地を使ったものを考えているという。
昨年も参加したアーティストのカーン・リーさんが、空港から市街地に続く道の両側にある耕作放棄地とそこに繁茂するセイタカワダチソウに問題意識を持ち、今年はこれをテーマにしたいという話になったそうだ。
「アーティストさんが作る作品というのは、現代の社会を映す鏡であると思っています。耕作放棄地の問題は全国各地にありますけれど、ここでも非常に多くて、かといって、なかなか解決する話ではないんですね。でも、これを機会に、セイタカアワダチソウや耕作放棄地について、市民の皆さんに考えてもらえればと思っています。」
アーティストが投げかける現代社会への問いかけは、来間さんたち建築塾が抱く問題意識とも重なり、それが作品づくりへとつながっているようだ。
「米子の問題は、どこの地方都市もそうなんですが、中心市街地に活気がなくなっていることだと思うんですね。街が縮小していくのも、ある程度仕方がないと思うんですが、昔と同じような商店街として復活することは無くても、人が普通に楽しく暮らせる、にぎわいのある街にしていきたいなと思って、こういった活動にも取り組んでいます。」
外に出て初めて見えた、米子の魅力
AIR475の取り組みは「米子建築塾」が窓口となって、米子市内で行っているものだが、実は「鳥取芸住祭」という、県単位の大きな取り組みの一部としても位置付けられている。
「鳥取県では昨年からこの『藝住祭』をやっているんですが、これの究極の目的は、移住なんです。アーティストさんに移住してもらえるような県にしたい、というのが最終目的で、いまの鳥取県知事さんも『どんどん鳥取県に移住してもらいたい』ということを言っています。」
外からの視点を使って地元の魅力を伝えることで、地元の人たちが、地元の魅力を再発見できることが重要だと、来間さんは考えている。
「僕自身、高校生の頃までは地元には何も無いって思ってました。地元の“狭い”部分とかが嫌で、1秒でも早く東京に出たかった。でも、当時どれだけ地元のことを知っていたかと言えば、ほとんど何も知らなかったんですね。」
「でも、一度離れてみてわかりました。高校生の僕は“米子には文化が無い”って言い方をしていたんですが、それは無いと思っていただけで、本当は音楽でも何でも、いろいろな文化が根付いているんですよ。」
地元の人はなかなか気がつけないのが、地元の魅力。一度外に出た来間さんだからこそ分かる地元の魅力を、多くの人に知ってもらいたい。それが今の願いだという。
米子暮らしを始めて実感した「自分の存在感」
東京では数年ごとに住居を変え、コミュニティへの帰属意識も低かったという来間さん。ところが米子に来て、自分の存在感を感じることが増えたそうだ。
「米子に戻って来て、自分が地域とか、何かの役に立っている実感が湧くようになりましたね。東京だと、何かをやろうと思っても、仲間もなかなか集まらないし、場所を借りるにもコストがかかるし、簡単にはできなかったんですね。それに、自分がやらなくてもほかの人材が沢山いますから、自分の出番は無いかな、と思うこともありました。でも、こっちに戻ってくると、同じようなことをやっている人はいないので、自然と役回りが自分にまわってくるんです。」
都会暮らしでは大勢の中に埋もれ、自分らしい活動ができないが、田舎ではそれができる。来間さんは米子に戻ってきて、初めてそれに気がついたという。
「米子には自分が何かをできる“ステージ”があるというか、余白があるんです。街づくりに関わりたいと思ったら関われる。時間もある。協力してくれる人もいる。米子にはチャンスが沢山あると思います。だから活躍の機会が無くてもどかしい、という気持ちを持っている都会の方にはおすすめですよ。生活コストも半分くらいになると思います。」
Uターンして間もなく10年を迎える来間さんに、米子での日々の生活についてきいてみた。
「仕事の時間は東京に比べると短いですね。ただし収入も減りましたけれど。でも十分生活はできますし、僕の場合は家で仕事もできますから、毎日子どもと一緒にごはんを食べていますよ。東京で働いていたときは毎日残業続きだったので、子どもとごはんなんて難しかったでしょうね。」
建築家としての仕事を続けながら、ワークライフバランスも整え、「米子建築塾」の活動から生きがいも得ているという来間さん。都会からのUターン組だからこそわかる「米子の魅力」を、これからも継続的に発信していきたいと考えている。