カフェ、ギャラリー、ゲストハウス…御手洗地区で次々と新しい事業を展開
井上さんは、2011年春に「船宿カフェ若長」をオープンしたのを皮切りに、「ギャラリー脇屋(薩摩藩船宿跡)」「鍋焼きうどん 尾収屋」「潮待ち館」「旅籠屋 醫(ゲストハウス)」と、次々に御手洗地区の見所となるスペースをつくり出し、最近は1日一組限定のラグジュアリーな宿と、長期滞在型シェアハウスのリノベーション作業に追われる日々を送っています。
「カフェがしたかったからカフェをしたわけじゃない。鍋焼きうどん屋がしたかったわけでもない。」そう語る井上さんが、事業展開していった背景には、「事業」=「自分の表現」だという捉え方がベースにあります。
広島県安佐北区出身の井上さんは、大学卒業後、名古屋に本社がある建材メーカーに就職。宮崎県に配属となり、7年間営業の仕事を経験しました。営業職を志した背景には、大学時代のアルバイトが関係していたようです。
「大学の入学式の日、母親と引越しをしていたら、アパートの目の前にある焼き鳥屋でアルバイトをしないかと声をかけられたんです。声をかけた人は、そのお店のアルバイトスタッフで、後任を探していたようで。流れで、焼き鳥屋でアルバイトをすることになったんです。」 ひょんなきっかけから始めたアルバイトでしたが、結局大学4年間、ずっと続けることになったのだそう。
「焼き鳥屋のオヤジは、うるさいオヤジだったんですけどね、そこで色々と刺激を受けたんです。うちは両親が公務員だから、漠然と公務員になろうと思っていたのに、そのオヤジに影響されて、自分で事業したいなって思うようになったんですよ。」
24歳で結婚し、会社を辞めて奥様のご実家である呉市内に移住したのは、29歳の時でした。その後、観光ボランティアガイドの経験を通じて、この御手洗地区に出会いました。
持続可能な町の仕組みをつくりたい―“御手洗ミュージアム構想”
観光ボランティアとして地域を案内するようになった井上さん。
「まずは町のことを教えてもらおうと、知っていそうな人に聞いて回りました。他に若いガイドなんていなかったし、町のことを知りたいと言ってどんどん突っ込んでいくから、色々な人が珍しがって教えてくれたんです。そうやって御手洗に顔見知りも増えていきましたね。」
観光ボランティアガイドをする中で、地域に対する知識を深め、御手洗への愛着を強くしていった井上さんは、重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)を考える会の事務局長も務めました。
「選定を受けたのは平成6年なんですが、20周年の時に、3年計画で町のことを考えることになりました。それで、空き家のデータベース化と御手洗未来計画を作ったんです。御手洗をどういう町にしたいかというアンケートをとって、“御手洗ミュージアム構想”というものが生まれました。超高齢化が進む最先端の地域ですが、離島だったこともあり建物だけではなく、昔使っていた道具や祭りなどの独特な文化が今も残っています。それらを活かして、町全体を生きた博物館として運営し、行政だけに頼るのではなく、自分たちで稼ぎ、伝え、保存し、持続可能な町の仕組みをつくっていけたらと考えています。」
御手洗にあるとびきり魅力的なものを味わってもらうために、宿が必要だった
昨年オープンしたゲストハウスも、御手洗ミュージアム構想を実現するために必要と考えられ、実行に移されたものでした。
「文化も挨拶も、人間関係の距離感も。町そのものを全て作品だと認識して、よさに気づき、どう保存しようかということを考えています。地域の人々との触れ合いや御手洗でみる朝日や満月の美しさ・空気感はどれも素晴らしい作品で、ゆっくりと過ごさなければわかりません。御手洗をとことん味わってもらうために「宿」が必要だと思ったんです。」
このゲストハウス「旅籠屋 醫(KUSUSHI)」は、元々は越智医院という地域に根ざした病院でした。病院は移転し、10年ほど前から空き家になっていた建物は、洋風建築の外観も可愛らしく、御手洗地区のシンボル的な存在。CMやテレビドラマなどの撮影にも使用されていました。空き家のデータベース化を進める中で、長らく空き家であったこの建物の所有者が地域の為になるなら活用してほしい考えを聞いた井上さん。建物の所有者と今までやってきたこと、これからの構想を話し、それならばということでここをゲストハウスとして改修することが決まりました。
クラウドファンディングで改修の資金を募り、できるところは自分たちの手でリノベーション。他の家にあった家具を使用したり、ラウンジには越智医院で使用されていた診察台がソファとして置かれ、点滴を吊るすのに使用されるスタンドや顕微鏡なども並んでいます。
「普通に宿を作ったら相当のお金が必要になるので、僕らはあるものを生かしてやっています。壁をあえて見せるつくりにしたり、他の家にあったものを使ったり。きれいに作り変える予算がないのもあるけど、ここにあるものすべてを財産と捉え、活用したいと考えました。」
様々なメディアで取り上げられたこともあり、少しずつお客さんは増え、海外からの旅行客も訪れるようになりました。
そして、つい先日、1日1組限定のラグジュアリーな宿もオープン。広々とした室内には、ベッドがふたつ。海辺に面しており、窓からは海が見渡せる洗練された空間です。
未来の御手洗のために必要なものを。一石三鳥以上のまちづくり
このように次々と事業を展開する井上さんの原動力となっているのは何なのでしょうか。
「自分で事業したいなって気持ちはずっと持っていました。その中で、たまたまここで出来そうなことがあったから、やってみただけなんですよ。」と語る井上さん。
「会社員時代は、未熟だったこともあって、数字を上げるために、問屋さんに無理をさせてしまったりして、やりながら、本当にこんなことでいいのだろうかと自問自答していました。自分のアクションで、関わる人達にどれだけ喜んでもらえるか、その結果として対価を得て次のさらなる喜びを提供していく循環を自分で作りたい、という気持ちが強くなって会社を辞めました。全てがゼロからの経験なのでいつもバタバタしていますが、街の人達や関わってくださる沢山の方達と一緒につくっていく新しいチャレンジにとても充実感を感じます。
空き家所有者のニーズ、町に来るお客さんのニーズ、社会的なニーズなど…。それぞれのニーズの真ん中にあるものに応えていく。ヒト・モノ・情報をどう組み合わせれば、どう伝わるのか―、見下げられたもの、当たり前だと思われているものの見せ方を少し変え、価値あるカタチにしていくことが、町にとっても必要なことだと思うんです。」
そんな気持ちで御手洗での活動を続ける井上さんに、今後の展望を伺いました。
「今となっては、ここで何を残せるかということを大切に動いています。10~20年後に、自分がどういう社会で暮らしているのか、仮に僕がおらんようになったときに、ここに何が残せるのかなって。」
現在は呉市内と御手洗との2拠点で暮らしていますが、将来的には御手洗1か所に拠点を移す予定なのだそう。自分の老後も継続して快適に暮らすことのできる町にするためにはどうしたらいいのか、そこも見据えているのです。
これまでは店舗や宿などを中心に展開してきた井上さんですが、今後はソフト事業に力を入れたいと考えています。
「ハード整備はひと段落です。これからはここで何ができるのかという提案をどんどんしていきたいです。昭和初期の自転車タクシーというのがあるんですけど、それも修理して街で乗ってもらえるようにしたり、朝日を浴びながらのヨガ合宿や施設を使った御手洗文化体験など、御手洗で何を味わえるのかを提案していきたいです。」
地域が求める人材になりたいと思う
たまたま出会った、御手洗という町。
「風景と、人。この町が好きになったんですよね。それにものすごい助けてもらってるんですよ、僕。昨日もごはんご馳走になったし、カフェの前を掃除してくれる人もいるし。ほんまにここの人たちって、屈託がないというか、献身的というか、垣根がない。僕はここで表現させてもらってて、そのために場所も貸してもらってる。だから、あいつがおってくれて良かったと言われる人物になりたい。」
地方の資源を活用しながら、自分の表現をして生きていくこと。それは並大抵のことではありません。都会にはない慣習や価値観も残っている中で生きていくのに必要なことを、井上さんはこう語ってくれました。
「地域の習慣や価値観に合わせられる柔軟性、少々じゃへこたれないプラス思考力がないと、コミュニティが生きている地方でやっていくのは難しいんじゃないかな。場所にもよりますが、人は変わらないので。ある程度、地方の文化と価値観を尊重しながら、その中で自分のやりたいことをどう表現できるかですね。地方でのんびりなんて、できないですよ。若手が少ないんだから(笑)」
ニコニコ笑顔で道行く人に接する井上さんですが、御手洗を語るそのまなざしは真剣そのもの。たまたま出会った御手洗地区で、自分の表現したいことと、町の課題解決とを掛け合わせて、活動させてもらっているという恩義を、きっちり果たそうとする真摯な姿がそこにありました。