メープルと出会い秩父へUターン
埼玉県秩父市で生まれ育った井原愛子さん。学生時代には都内の大学まで2時間かけて通っていました。社会人となり大手家具メーカーに入社したことを機に秩父を離れ、会社では店舗での販売や物流、マネージャーなどを担当。仕事は楽しかったけれども、同時に組織の中で働くことに物足りなさも感じ始めていました。
「この先どうしようかと考えたときに、起業に興味が生まれたんです。秩父でのメープルの活動は時々テレビでも取り上げられたりして、なんとなくは知っていましたがその時に偶然思い出して、インターネットで調べてNPO法人『秩父百年の森』に出会ったんです。」
その2週間後にNPO主催のカエデの森を巡るエコツアーが行われることを知り井原さんは友人を連れて参加。
▲秩父の山で行われたエコツアーの様子
地元ではあるものの、それまで足を踏み入れたことがなかった山の中に入り、「自然がすごい」と感じたといいます。「秩父百年の森」の人達による説明を受け、さらに関心が深まった井原さん。どういう思いで活動が行われているのか知りたくなり、「秩父百年の森」理事長(当時)の島崎武重郎さんや、カエデの樹液を買い取りお土産品を作っている「秩父観光土産品協同組合(以下、組合)」の元を訪ねました。
「話を聞いてみて、活動をしていく中での問題点と、私がもっとこうしたらいいのにって思うところが一致したんです。例えば、こんな面白いものがあるのだからもっと発信すればいいと思ったのですが、みなさんそれぞれ仕事をお持ちで、発信する余裕がなかったんですね。だったら私がそれをやりたいって思ったんです。ただやるなら中途半端ではなく徹底的にやりたいので仕事を辞めて関わることにしました。」
エコツアーに参加してからわずか3ヶ月で和メープルの活動に取り組んでいこうと決心。しかしながら、当時の活動はほぼボランティアで行っている状況で、人を新しく雇えるような余裕はなかったそうです。
「仕事を辞めて活動に参加したいと相談したら、びっくりされちゃって。ボランティアでの活動だからお給料もないよって反対されました。ですけどそれはいいんです。自分で仕事もお給料も作りますから。」
本場カナダとの違いに愕然
会社に辞意を伝え、半年かけて仕事の引継ぎをしながら活動に関わり始めた井原さん。1月から3月までの樹液のシーズンにはポリタンクを担いで山に入り、樹液採取を手伝いました。また、メープルの本場・カナダでの取り組みにも関心があり、有給休暇をとって2週間ほど視察に行きました。
▲メープルを知るために、カナダへ
「秩父に足りていないものを本場に学んだ方がいいと思ったんです。技術だけでなくアイディア面も。現地のメープル農家を何軒も回って、採り方や、カエデの樹液をどう生かしているかを見てきました。ただ実際に見てみると、規模の違いに愕然としましたね。秩父では急峻な山の中で手持ちのポリタンクに採取するのでかなりの重労働なんです。カナダではどこまでも続く平地に生えているのがすべてカエデの木で、それをパイプラインでつないでポンプで樹液を回収していたんです。秩父の規模でどうやってビジネスにしたらいいんだろうという感じでしたね。」
2014年に会社を退職し本格的にメープルに取り組み始めた井原さんは、秩父にもカナダにあるシュガーハウスを作りたいと思うようになりました。シュガーハウスとは採取した樹液を煮詰めてメープルシロップを作る工場のこと。冬の寒い外とは違い、シュガーハウスの中は樹液を煮詰める蒸気と甘いメープルシロップの香りで満たされている幸せな空間。お客さんも作る様子をすぐ近くで見られ、メープルシロップを買ったりケーキを食べたりできる憩いの場にもなっています。
カナダのシュガーハウスのことを組合に伝えると、そういう施設を作りたい思いはあったものの人材がいなくてできなかったとのこと。そこで熱意ある井原さんが加わり、秩父のブランド戦略の一環としてシュガーハウスを作ることになりました。また組合が売り出している「秩父のカエデ樹液で作ったサイダー」が販売開始から数年経っていたこともあり、新しく商品を開発するプロジェクトの一員としても関わるようになりました。
それからは樹液を煮詰める機械を導入するため、補助金を調べて行政とやり取りをしたり、商品開発も進めていきました。同時にスギやヒノキの毎木調査にも参加。山の木を一本一本GPSで位置を計測し、樹種や樹齢、直径などの記録を取りました。そんな積極的に行動する様子を見て、初めは懐疑的だった人たちも次第に井原さんが本気で取り組んでいるのだと認めてくれたそうです。
▲カエデの森の植林風景
国内初のシュガーハウス「MAPLE BASE」オープン!
シュガーハウスの設立に向けて動き出した井原さん。場所を探すうちに埼玉県と秩父市が運営する広大な公園の秩父ミューズパーク内で今は使われていないログハウスと出会いました。元はゴルフのスタートハウスだった建物の趣に井原さんは一目ぼれ。カナダで見てきたシュガーハウスのイメージとぴったり合致したのだといいます。
市が所有しているため市長に面会を取り付け、借りられるように直接依頼したところ、快く承諾して頂いたといいます。場所が決まると井原さんは再びカナダへ飛び、視察でお世話になったメープル農家を訪ねました。そこでメープルシロップの製造方法を学び、国内初となるメープルシロップを煮詰める機械、エバポレーターを購入。2015年9月には船便で送られたエバポレーターが秩父の地に到着。説明書がなかったため手探りで組み立て、なんとかログハウスに設置できました。
ただメープルシロップを製造するだけではなく、カナダのシュガーハウスのように楽しめるようなカフェにしようと考え、総務省の補助金を受けて改装。そして2016年4月に国内初のシュガーハウス「メープルベース」がオープンしました。
▲メープルシロップをたっぷりかけて味わう人気のパンケーキ
「和メープルのことを知ってもらうために、シュガーハウスの説明や樹液を採取する様子を展示しています。また庭には秩父にある21種類のカエデの樹を植えています。ここに来れば秩父のメープルのことが分かったり、食べられたり。そんな風に使ってもらえたらいいなって思います」。
森からあふれ出てくる恵みをお届けしたい
▲21種類のカエデの樹が並ぶ
井原さんは2015年に、自然の恵みを生かした商品開発やエコツアーの企画などを業務として行う「TAP&SAP」という団体を立ち上げました。TAPは木から樹液を採る事、SAPは樹液。「森から様々な恵みが流れ出てくる出口になれればいい」という思いが込められています。
▲季節によって味が異なる「秘蜜」
商品開発では野菜や果物のジュースをミツバチが食べて作りだす「秘蜜」のブランディングを担当しました。この「秘蜜」は、蜂蜜の国際規格である「花はちみつ」や「甘露はちみつ」の製造定義と異なるために、規格上「はちみつ」とは呼べず、新しいカテゴリーの「第3のみつ」なのだといいます。井原さんは今後もこういった山からの恵みを使った商品開発を進めていきたいと考えています。
「やりたいことはたくさんあるので、地域の人も巻き込んで一つ一つ形を作っていきたいです。ゆくゆくは樹液を採取している大滝地区にシュガーハウスを作りたいと思っています。今でもカエデを植林しているのですが、樹液を直接引っ張れるような場所に作りたいというのが最終的な目標です。植林のカエデから樹液が採れるようになるのは10年後、20年後なのですごい先の話なんですけどね。」
秩父はすごく恵まれている豊かな土地
井原さんは秩父はすごく恵まれている、豊かなところだと言います。
「秩父は文化的、歴史的、森的にもすごく豊かだと思います。秩父夜祭もユネスコの無形文化遺産として登録されたし、秩父の人は昔ながらの伝統にも誇りを持っています。もしかしたら森の資源はどこにでもあるのかもしれないですけれど、それを発掘して楽しんでいる人たちがいるのが特徴かもしれません。私自身、元々秩父に帰りたかった訳でもなく、山もそんなに好きではなかったのですが、今では山に行くと浄化されます(笑)。そんな私でも興味を持ったことは一つの指針になるのではないでしょうか」。
▲メープルベースでの山の恵み・秩父の木を使ったおもちゃのイベント
身近にある魅力をもっと知っていただきたい
最後に埼玉県に移住しようと考えている方へのメッセージを頂きました。
「埼玉ってマイナスを言われることが多いんですけど、いろんな活動をされている方や魅力的な場所が多いと思っています。そういう活動をもっと知ってもらえれば、外県からの評価も変わるんじゃないかな(笑)。東京から遠く離れなくても、魅力的なことは埼玉県の各地であると思うんです。秩父も遠いんですけど、西武線一本で池袋に行けますし、時間的には新幹線に乗って名古屋に行くのとほぼ同じ、でもお財布にやさしいなと。身近にある魅力をもっと知っていただきたいと思います。」
一度は離れたことで改めて秩父の魅力を感じられるようになったという井原さん。今後も秩父から自然の魅力を発信し続けていくことでしょう。