震災後存在感を高めた中津市
大分県の北西部に位置する中津市は、大分市、別府市に次いで人口が3番目に多い市。福沢諭吉の故郷として有名だが、最近では“からあげの聖地”として急速に知名度を上げている。中津市街から約20分ほどのところにある「耶馬溪(やばけい)」は、断崖や岩窟が一大パノラマを作る、大分県を代表する景勝地で、秋の紅葉シーズンには毎年多くの観光客が訪れる。
東日本大震災以降は、60年以上有機農業に取り組む下郷(しもごう)という地域に惹かれて移住してくる若者も多く、昨年は地方新聞45社と共同通信社によって設立された、地域活性化に挑む団体を表彰する「第9回地域再生大賞」のブロック賞に選ばれた注目の地域だ。
アメリカで研ぎ師をしていた江戸っ子は、3.11を機に食の安全を求めて移住
2011年3月11日の東日本大震災は、私たちの生き方そのものを大きく揺さぶった。東京都台東区出身の中田充昭さんも、震災をきっかけに生き方を問い直したひとりだ。
東京でキッチンの取り付けの仕事をしていた中田さんは、25歳のときに「0からやってみたい」とギター1本を携えて渡米。路上で演奏しながら、ヒッチハイクでカリフォルニアを旅して回った。その後、和食レストランで修行しているときに、「包丁の研ぎにものすごくハマってしまって、アメリカ人の家庭の包丁を日本人が研ぐというのはおもしろいな」と研ぎ師としての仕事を始める。フライヤーのポスティングと飛び込み営業で順調に仕事を拡大していった。
ビザを更新するために2011年3月6日に一時帰国、そのさなかに東日本大震災が起きる。アメリカに戻ることを一時延期した中田さんは、「原発事故を目の当たりにして、とりあえずしばらく西日本へ行こう」と福岡へ。九州で落ち着く先を探していた。
「候補は熊本とか色々ありました。正直な話、大分は全く眼中になかったんですけど、友だちがいたことと、実際に大分に来てみて、『ここ、秘境だな』と、むしろマイナーなところにとても惹かれました」
アメリカで感じた大量消費社会への違和感や食の安全に対する意識が高まっていたこともあり、下郷農業協同組合が掲げる「消費者と提携し、有畜複合経営で金がすべてでない自給優先の生産と生活をし、健康で人間らしく生きよう! 」という有機農業宣言にも心惹かれた。「原発事故の後、食の安全というのを考え出した時期だったので、有機農業が盛んなのが良いなあと候補のひとつになりましたね。既に何組か移住者がいたことも、安心感に繋がりました」。
中田さんは、アメリカで知り合った現在の奥さまとともに耶馬溪に移住。緊急雇用対策制度を利用して有機栽培農家で修行した。
「最初は農業をやろうと考えていたのですが、現実問題として、中山間地域で農業だけで生計を立てるのは厳しい。野菜セットを作って、全国発送を試みたりしたのですが、そこまで軌道に乗せることができませんでした。だから今は、自給自足+下郷農協に少し出荷する規模感でやっています。農業一本より、他に色々な仕事を作っていくというスタイルの方が楽しいので」
その「色々な仕事」のひとつが、2016年5月3日に国道212号沿いに誕生した「よろず屋xCafe やまびこ」だ。天井が高く、開放的な空間で、中田さんの淹れるハンドドリップコーヒーやパスタをゆっくりと味わえる。週末のみの営業だが、不定期で音楽ライブ、マルシェやワークショップなどのイベントを開催したり、委託された雑貨の販売もしたり、音楽好きや地元の人の交流の場となっている。
「みんなが集える場所になったらと思ってオープンしましたが、まだこの場所をフル活用はできていなくて。今はまだ波を作っている段階ですね」。店名はレゲエの楽曲にも使われる「タブ」と呼ばれる手法・ジャンルが由来。「やまびこがだんだんと反響していくように、この場所から広がっていったら」と語る。
アメリカでの研ぎ師生活が証明しているように、中田さんはどんな場所でも仕事をつくり出すことができるバイタリティと親しみやすさに溢れている。平日は、最近始めたという便利屋さんとして忙しい日々を送っているそう。この取材の前も、絵画の掛け替えの仕事を終えてきたところだと話す。「買い物代行から料理や掃除、草刈り。最近は左官屋の友だちと外構工事をしたり、本当に何でもしますよ。フライヤーを作ってポスティングしたら、ひっきりなしに依頼があって、今はポスティングをストップしたくらいです。意外にも需要と供給っていうのは眠っているんだなと感じています」。
さらに今年の夏は、去年からハマっている釣りを生業にしたいと目論んでいる。
「漁業権を買って、川魚を練炭でカラカラに乾燥させて道の駅で販売しようと計画しています。この地域の人はみんな骨酒が好きなので、骨酒を復活させて、地元を盛り上げる動きもしていけたらと思ってます」と意欲的だ。
人口5000人の町に移住者80人以上。流れを作った2人のキーマン
「福岡に行くと、『耶馬溪』というワードを本当によく聞くんですよ。『耶馬溪良いね、引っ越したい』と言う人も多いですね。実際に行動にまで移す人は限られていますけど、それだけ耶馬溪という土地が有名になったというか、そういう思いを持っている人が増えてきたという印象を受けます」。
中田さんによると、「よろず屋xCafe やまびこ」を始めた1年半前の時点で、子どもも含めて80人以上が耶馬溪町に移住。今もさらにその数は増え続けているそうだ。「この間も近くの温泉に行ったら、見慣れない若い男の子がいて。話しかけたら、『最近引っ越してきた』と言ってましたね」。
移住者が始めたカフェも多く、「よろず屋xCafe やまびこ」の他にも、Uターンしたオーナーが峠の山頂にオープンした「豆岳珈琲」、久留米市から移住した陶芸家が営む「陶cafeしきろ庵」、東京の「カフェエイト」のシェフが始めたヴィーガン料理店「SattaYard」など、実は耶馬溪町はカフェの激戦区なのだ。
この移住者の流れを作ったのは、移住者と地域の橋渡しをしてきた横山民幸さん、中島信男さんの二人だ。地域が衰退していく中、地域活性化の担い手として移住者の受け入れに力を注いだ。「二人がいなかったら、今の流れは始まらなかったんじゃないかなと思っています。初期の移住者の人たちは、みんなそう言うんじゃないかな。何人もの移住者に家を紹介してくれて、地元の方なので大家さんと直接話をして、中に入って契約書も作成してくれました」と中田さんも感謝の言葉を惜しまない。
「今は自分も次第に横山さんや中島さんと同じような感じになっていますね。『空き家、ない?』みたいな感じて聞かれて紹介してあげたり。これから来る移住者の人は、ゲストハウスの経営に関心をもっている人が多いみたいなので、楽しみですね」
「耶馬溪の谷は深い。山あり谷ありですよ。楽しいことも多いし、大変なこともある。でもこの耶馬溪という場所にはおもしろい人を呼ぶ力があります」
真っ黒に日焼けした中田さんの自然体の笑顔からは、耶馬溪での暮らしを楽しんでいる様子がうかがえる。けれど実際は、傍目にみるより苦労も多かったに違いない。
「まだまだ成長の過程」と語る中田さん。中田さん自身がどう成長し、彼が起こす波がどう耶馬溪に波及していくのか、楽しみは尽きない。