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2015年9月7日 山田智子

山を守り、山に守られる「加子母」

伊勢神宮の御神木を奉納することで知られる岐阜県中津川市加子母(かしも)。

人口3000人の山あいの小さなまちと聞き、ステレオタイプに元気のない集落をイメージしていたが、実際に訪れた加子母は、驚くほど若々しく、活気にあふれたまちだった。

加子母の若々しい印象はどこから生まれてくるのだろうか。

取材を始めると、その“若さの秘訣”はすぐに明らかとなった。

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「木曽路はすべて山の中である」

同市出身の島崎藤村の『夜明け前』の有名な書き出しで知られる木曽路。その西側、裏木曽と呼ばれる豊かな山々に抱かれた加子母は、94%が森林に占められ、まさに“山の中”にある、山とともに生きるまちだ。

名古屋から高速で約2時間。中津川ICから、両脇が花で彩られた“花街道”と呼ばれる国道257号を30分ほど走ると到着する。賽の神峠から、美濃と飛騨の境である舞台峠までの約10キロ、加子母川にそって細長くのびた集落に、約1000世帯3000人が暮らしている。

平成の大合併で中津川市に編入された旧加子母村は、伊勢神宮遷宮のための御神木を育む「東濃ひのき」の産地として全国にその名を馳せてきた。淡いピンクでツヤがあり、年輪幅が細かく均等で、日本の3大銘木の一つに数えられる加子母のヒノキ。江戸時代に加子母が尾張藩の飛び地とされていたことからも、いかに加子母のヒノキが重用されていたかをうかがい知ることができる。

加子母には、小学校や「ふれあいコミュニティーセンター」、研修施設「ふれあいのやかたかしも」など、木造の公共施設を多く見かける。加子母の人たちが「東濃ひのき」に誇りを持ち、愛しているかが伝わってくる。

 

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年代を超え、住民全員で作り上げる文化

加子母を象徴する木造建築の一つが、岐阜県の重要有形民俗文化財に指定されている歌舞伎小屋「明治座」だ。人力で回転させる「廻り舞台」、2本の「花道」、「スッポン」と呼ばれる役者が登場する切り穴などを備え、“手作り”とは思えないほど本格的な歌舞伎小屋に仕上がっている。

「明治座はその名前の通り、明治27年に「自分たちの楽しむための場所を自分たちで作ろう」と、材料の木を山から切り出し、石を拾い集めるところから、村民総出で作り上げました。

加子母はヒノキの産地ですが、「ヒノキ一本、首一つ」と言われていたように、ヒノキは大変貴重だったため、明治座にはヒノキは1本しか使われていません。庶民の木である栗やモミ、ケヤキ、サワラなどが使われています。」

お祖父さんが明治座の建築に携わったという案内人の安江さんは、愛しそうに明治座を見つめる。

大切な地域の宝を受け継ぐため、明治座は100年以上もの間絶えず住人の手によって保存改修が繰り返されてきた。現在も改修工事の真っ最中。古くなった木の柱を補強し、40年前に瓦に吹き替えられた屋根を創建当時の“とんとん葺き”に復元する工事が佳境を迎えている。

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加子母の人たちのサロンである明治座では、年に1度クラシックコンサートと、地元の素人役者による「地歌舞伎」の公演が行われている。岐阜県東濃地区は日本有数の地歌舞伎が盛んな地域。中山道など主要な街道の交差点であり、都市の人やもの、文化を取り入れやすい環境であったことが、この地域に地歌舞伎が根付いた一因だといわれている。明治座以外にも、下呂市の鳳凰座や白雲座、白川町の東座などが現存。岐阜県内には現在全国最多となる28の歌舞伎保存会が活動しており、その約半数の15団体が東濃地方に集中している。

加子母では、1973年(昭和48年)に加子母歌舞伎保存会が発足、毎年9月に定期公演を行っている。役者も舞台装置も、企画から公演までのすべてを住人らが手がける。小中学生から大人まで年代を超えた住民が約2ヶ月間にわたり練習を重ね、大道具、照明などを担当する武蔵野美術大学の学生らが舞台裏を支える。

今年は改修工事が行われているため、10月11日の全国育樹祭でプレイベントを行った後、11月29日に真新しい明治座でこけら落とし公演が行われる予定だ。

 

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伝統を守り、変化する柔軟性

加子母のもう一つの宝が、加子母の北、小郷(おご)地区にある樹齢千数百年とも伝えられる大杉だ。樹高30.8m、根回り20m、天に向かって真っすぐ伸びる姿は圧巻。老木とは思えない、力強いエネルギーを放っている。その佇まいは、生き生きと暮らす加子母の人たちを彷彿とさせる。

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大杉のある大杉地蔵尊では、毎年旧暦の7月9日に「なめくじ祭り」が行われている。大杉地蔵尊の隣にある文覚上人(もんがくしょうにん)の墓に群がる「なめくじ」を参拝する奇祭だ。

文覚上人は、源頼朝が平家討伐をする際挙兵をバックアップしたと言われる人物。若かりし頃、人妻であった袈裟御前(けさごぜん)に恋をし、誤って殺害してしまう。その袈裟御前が、命日に当たる旧暦の7月9日になめくじに姿を変え、文覚上人のお墓に這い上がってくると言い伝えられ、昔から小郷地区の人たちが供養してきた。

この伝説をもとに、地域の人がアイデアを出しあい、現在の「なめくじ祭り」に発展させたのが20年ほど前。当初は100人ほどの参加者しかいなかったが、今では加子母の夏に欠かせない一大イベントとなった。

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祭りは、こどもバンドのステージから始まり、盆踊りで最高潮を迎える。櫓を取り囲むように、飛騨牛や五平餅などの加子母グルメや、子どもたちが遊べるわなげコーナーなど、地域の人たちが趣向を凝らした店が並ぶ。

目玉は、「なめくじ」にちなんだクジ「なめクジ」。販売開始前から行列が途切れないほどの人気だ。現在は三角クジとなったが、以前は舐めると当たりが分かる「舐めクジ」だったそうだ。こういった遊び心からも、地域の人たちが楽しみながら祭りを作り上げている様子が伝わってくる。

今年は「加子母木匠塾※」と期間が重なったため、木匠塾の学生が浴衣で祭りに参加した。地域に古くから伝わる“宝”を守り伝えながら、新たなアイデアを加えて進化させたり、”外”の人たちを受け入れたりする柔軟性をもつこと。地域の人と学生が一つの輪になって踊る姿を眺めながら、加子母の“若さの秘訣”が少し見えた気がした。

※「加子母木匠塾(もくしょうじゅく)」
毎年夏に全国の大学(今年は8大学)から建築を学ぶ学生200人超が2週間加子母に滞在し、地元の工務店等の指導のもとで林業や木造建築を学ぶ。2015(平成27)年で21年目を迎え、今回は7つの制作の他、加子母大杉の保護柵修繕、明治座の屋根改修体験も行われた。

 

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新たな文化が花開く

「色々と種をまいていたことが、少しずつ花開いてきた感じです。」

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なめくじ祭り、木匠塾は約20年、歌舞伎は約40年。すぐに結果を求める風潮のある中、いずれも長い時間をかけ、まちの人と”外”と人が力を合わせ、加子母の新たな文化に育ててきた。

「だって、木は今植えても、育つのは20年後、50年後、100年後でしょ。しかも自然のことなので、うまくいかないリスクも知っている。加子母の人たちの中には、じっくりと育てるDNAがあるのかもしれませんね」と加子母総合事務所の伊藤満広さんは笑った。

山田智子
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山田智子

山田智子岐阜県出身。カメラマン兼編集・ライター。 岐阜→大阪→愛知→東京→岐阜。好きなまちは、岐阜と、以前住んでいた蔵前。 制作会社、スポーツ競技団体を経て、現在は「スポーツでまちを元気にする」ことをライフワークに地元岐阜で活動しています。岐阜のスポーツを紹介するWEBマガジン「STAR+(スタート)」も主催。 インタビューを通して、「スポーツ」「まちづくり」「ものづくり」の分野で挑戦する人たちの想いを、丁寧に伝えていきたいと思っています。

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 「風土」という言葉には、地形などの自然環境と、 文化・風習などの社会環境の両方が含まれます。 人々はその風土に根ざした生活を営み、 それぞれの地域に独自の文化や歴史を刻んでいます。

 過疎が進む中で、すべての風土を守り、 残していくことは不可能であり 時とともに消えていく風土もあるでしょう。 その一方で、外から移住してその土地に根付き、 風土を受け継ぎ、新しくつくっていく動きもあります。

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