鬼神社からひも解く。鉄に縁の深い町まち・弘前
青森県西部にある岩木山には、北東から日本海側にかけて、製鉄遺構が多数出土している地域があります。この一角である弘前市の鬼沢地区は名前のとおり数々の鬼伝説が残っており、鬼を祀った「鬼神社(きじんじゃ)」が存在し、そのご神体は鉄製の「鍬(くわ)」とされています。一説によると、高度な製鉄技術を持っていた正体不明の何者かが「鬼」と呼ばれ、当時その地にいたのではないかとされています。
そんな鉄に縁の深い弘前市には、藩政時代から350年続く「津軽打刃物(うちはもの)」という伝統的な鍛造技術があり、明治時代に始まったりんご栽培とは、切っても切れない関係にあります。りんごはまだ雪の残る1月から木の剪定を行いますが、この剪定の出来がその年のりんごの善し悪しを決めると言われるほど重要な作業です。青森県内最大のりんご産地の陰には、「津軽打刃物」によって進化を遂げた「津軽型」と呼ばれる剪定ばさみの存在がありました。
そんな津軽の生活と文化を支えてきた「津軽打刃物」は、現在、存続の危機に直面しています。弘前市では伝統を絶やすまいと、地域おこし協力隊の制度を活用し、「津軽打刃物」の次の匠となる人材を育てようと募集を始めています。
弘前の伝統工芸・津軽打刃物をとりまく現状
地域おこし協力隊として着任すると、最大3年間の任期中は職人として修業に入ります。修行先として受け入れを行うのが、弘前市の金属団地に工場を構える有限会社二唐(にがら)刃物鍛造所。会社としては1949年に設立され、鉄構事業部と刃物事業部からなる従業員16名の組織ですが、津軽藩政時代から約350年続く由緒正しい伝統職人の技術を受け継いでいます。
お話を伺ったのは7代目で現社長の吉澤俊寿(としひさ)さんと、その息子で8代目となる吉澤剛(ごう)さんです。まずは、協力隊を募集する背景ともなった「津軽打刃物」をとりまく現状について伺いました。
俊寿社長「1960年に、弘前打刃物工業協同組合を設立した時の趣意書によれば、当時は約40社の鍛冶屋がいました。それから組合は消滅し、2007年、弘前商工会議所のプロジェクト*に集まった関係者は11社でした。その中でも刃物で生計をたてられていたのは実質5、6社。明確な後継者がいるのはうちくらいだったと思います。それぐらい、業界は衰退の一途をたどっています。」
※中小企業庁「地域資源∞(無限大)全国展開プロジェクト」に採用された「鍛治町・鍛造刃物産業構築『津軽打刃物』ブランドプロジェクト」のこと。「津軽打刃物」として初めて国際見本市に参加した。
「津軽打刃物」は、りんご栽培の道具として欠かせない剪定ばさみ以外にも、鎌などの農具や、プロ用の包丁といった商品が中心。高い技術を武器に、全国でも屈指の技量を誇ったと言いますが、なぜ衰退の一途をたどることになったのでしょうか。
俊寿社長「津軽の人は何より商売下手と言われます。いいものをつくっても、高く売れない。安価な大量生産品の普及もあると思いますが、人を雇ってまで営めなくなっている状況もありますし、技術を覚えたからと言って、のれん分けができる時代でもありません。また業界として、後進を育てる感覚や横の連携も薄かったため、衰退に拍車がかかったことも否めません。」
「津軽打刃物」の伝統は絶やさない。俊寿社長の決意
業界が縮小していく中、二唐刃物鍛造所が8代目まで後継の見通しがついているのは、6代目が始めた鉄構部門の立ち上げが大きくかかわっています。同社の鉄加工技術は、建設現場や住宅関連はもとより、文化財の修復や弘前ねぷたの骨組みとしても活躍しています。
俊寿社長「鉄構事業で会社の収入が安定してくると、刃物事業で次を考える余裕が出てきました。弘前商工会議所の音頭もあって、2007年に初めて津軽打刃物ブランドとして国際見本市に参加しました。ですが同時に業界の衰退ぶりも痛感しました。こんなに数が減っているのかと。プロダクトデザイナーの先生から『鍛冶屋は蒸気機関車みたいなもの。職業遺産になるのではないか』と指摘されたことも忘れられませんでした。」
業界の衰退ぶりを感じながらも、俊寿社長には未来への展望があります。
「大企業が持っていない“歴史”が私たちの強みです。350年続いていますから、自分の代で途絶えさせるわけにはいかない。先代も同じ気持ちだったと思います。伸びしろを考えると、刃物事業が有望とも考えており、これから『津軽打刃物』として、ブランドを世界にアピールし、価格を下げて国内市場に挑むのではなく、世界に向けて打って出たい。それもこれも息子が8代目として継ぐことを決心してくれたのが大きいです。」
津軽打刃物で世界へ。二唐の技術を武器に、海外へ挑もうとする俊寿社長を支えているのが、8代目となる剛さんです。
職人として、経営者として将来を見据える8代目
昨今の世界的なブームの後押しもあり、すっと切れる日本製の包丁は注目を浴びています。中でも二唐刃物鍛造所の包丁は代々続く作刀技術を応用したもので、切れ味は鋭く、衝撃にも強いのが特徴です。
2011年から入社した剛さんは、取締役部長として会社経営に携わりながら、一職人としても技術向上に邁進中です。入社同年にはパリのメゾン・エ・オブジェ、2013年にはドイツの世界最大級の消費財見本市アンビエンテに参加し、自社の製品に対する海外からの評価をその目で見てきました。
2013年にはドイツ見本市への参加を機に、県の支援も受けて会社のウェブサイトの英語版もリリースしました。現在もサイトを通じて問い合わせや注文が絶えません。一見、順風満帆に見えますが、課題も抱えているといいます。
剛さん「海外からの評価は高いのですが、注文に対応しきれていないのが課題です。ロット製造に対応できる機械化も必須ですし、会社の土台作りも必要です。組織として製造、営業、販売と分業化できればもう少し楽になると思います。製品は、機械化で量産していくものと純度を高めていくものとを見極めて、うまく調和させていきたいですね。」
また、海外の見本市で様々な意見や他産地の技術に触れた経験から、次のように語ります。
剛さん「海外でも評価されることは自信になりますが、今の技術をより良いものにし、独自のブランドまで高めていくことで、『津軽打刃物』の産地の名を高められるのではないかと感じています。そのために、技術を守っていく必要があります。自社の技術の根っこにあるのは、作刀の技。二唐に代々続く日本刀の技術復活をめざし、『刀匠(とうしょう)』の資格を取ることが一つの目標です。」
刀匠とは刀鍛冶の技術を取得した者に与えられる名誉ある匠の資格。着任する協力隊も、「津軽打刃物」を世界へ発信していくため、まずは職人としての腕を磨き、次の「匠」を目指していくことになります。
津軽打刃物、職人育成への熱い思い
剛さんは、「LEXUS NEW TAKUMI PROJECT 2017」*が全国から選出する51人の若手職人にも名を連ね、津軽打刃物を後世に継ぐ職人としても活躍していますが、いずれ8代目として会社を継ぐこともあり、職人育成にも強い思いがあります。
※トヨタ自動車株式会社および全国のレクサス販売会社が主催となり、全国各地で活動する、若き「匠」をサポートするプロジェクト
二唐刃物鍛造所と弘前市では、地域おこし協力隊の募集に先立って、2017年9月に「鍛冶職人の暮らし体験ツアー」を開催。首都圏からもものづくりに関心のある若者が参加し、その仕事ぶりを体感しました。
火床(ほど)と呼ばれる炉の温度は1200度。気を抜くと一瞬にして命に関わる大けがをする緊張感の中、慣れない鎚の重さで四苦八苦する参加者。彼らに接する俊寿社長の真剣なまなざし。手取り足取り、親身に指導する剛さんの落ち着いた態度。普段から気を抜けない環境ですが、参加者への対応のひとつひとつが、業界の行く末を思えばこその、叩いて鍛えた鋼のような凄みを感じさせます。
今回募集する協力隊は着任後、この刃物事業に携わることになります。現在、刃物事業を担当しているのは俊寿社長と剛さんのお二人のみ。
剛さん「最初は道具の使い方から覚えてもらい、包丁をつくる工程を理解してもらったら、まずは1本つくってもらうことになります。最低限のレベルのものをつくれるまでに3年はかかると思いますが、そこからしっかりした質のものを作るにはさらに時間は必要です。」
長年かけて積み上げられた伝統の技は一朝一夕で得られるものではありません。最後にお二人に職人として大事な心構えを聞いてみました。
剛さん「職人の世界は、教える側以上にうまくなりたいという熱意が必要です。私でよければ教えられることはすべて教えたいと思っていますし、私を踏み台にして伸びていってほしいと思っています。まずは貪欲に学ぶ姿勢がある方に、ぜひ来てほしいです。」
俊寿社長「オリジナリティを生み出すためには学ぶ姿勢が不可欠です。感覚だけでは『うまく行った』で終わりがちなので、裏打ちする理論も身に付けていく必要があります。根気よくものづくりに取り組む本気さがあれば、必ず形になりますので、ぜひ飛び込んできてください」
津軽打刃物の産地について語れるのは、業界を代表し、リードしているからこそ。8代目の頼もしい発言や取り組みからも、二唐刃物鍛造所の新しいチャレンジへの熱意を感じます。
「将来は職人を増やして、津軽打刃物の産地として、りんごの剪定ばさみの製造やメンテナンスなどもカバーしていきたい。鍛造道場のようなこともやっていけないか。そんな野望も持っています」と語ってくれた俊寿社長。伝統を受け継ぎながらも、時代の変化に柔軟に対応ができる職人を目指すには、最適な修行環境ではないでしょうか。