自己実現に向け、初めて訪れた十日町市松代
渡辺さんは大学卒業後、東京・下北沢のビストロに勤務しホールでの接客を担当、その後イベントの企画運営会社に転職しました。働くうちに、渡辺さんの心の中に違和感が芽生え、それが少しずつ大きく膨らんでいったそうです。
「柔軟だったはずの考え方が固まり、自分の視野が狭くなっていると感じていました。生きていくためにはいくら稼がないといけないとか、何かをするためにはいくら必要だとか、金銭的なことばかりにとらわれている自分に気が付いたんです。何をやっても本当に自分がやりたいことから離れていたから、どこかハッピーじゃない。このままでは自己実現ができないし、自分が一生懸命に頑張りたいことではないと思って、まず仕事を辞める決意をしました。」
仕事を辞めたタイミングで、渡辺さんはある案内を目にします。それが、「にいがたイナカレッジ」の短期プログラムでした。「にいがたイナカレッジ」とは中越地震を機に生まれたプログラムで、農村に暮らし、そこに住む方たちと一緒に汗を流しながら、地域づくりや6次産業、半農半Xなどの実践とそのスキルを学ぶ現場・実践型のプログラムです。父方の田舎が福島にあることもあり、「地方に行くなら北に行きたい」という思いがあったという渡辺さん。また短期プログラムの期間は1ヶ月であったため、渡辺さんにとってハードルが低かったと言います。この短期プログラムに参加するため、渡辺さんは初めて十日町市松代を訪れたのです。2014年の3月のことでした。
1ヶ月間、松代の竹所集落で過ごした渡辺さんの目に映るのは新鮮なものばかりだったそう。「3~5メートルも雪が積もる地域なので、除雪した雪で壁ができるのですが、その壁と道路との境目も分からないような感じなんです。この雪の多さ、東京だったら災害レベルですよね。大変ではあるけれど毎年当たり前のこととして過ごしていらっしゃる地元の方を見て本当にすごいなと思いました。それに、季節の行事や昔ながらの風習が地域にちゃんと残っていることにも感銘を受けました。カルチャーショックを受けるようなことや、人生初の出来事がたくさんあったんです。」
「にいがたイナカレッジ」の短期プログラム完了間際になり、水耕栽培のレタス工場で1年間のインターン受入れを募集するという話を耳にした渡辺さんは、そのまま松代に残ることを決めました。そして、インターンとして活動する傍ら、短期プログラム中に出会ったカール・ベンクスさんの仕事のお手伝いをするようになりました。
数々の貴重な出会いから生まれたレストラン「澁い」
▲カール・ベンクスさんと
ドイツ出身の建築デザイナーであるカールさんは、1994年から十日町市松代の竹所集落に移り住みました。最初に集落内の古民家をご自身の自宅として再生して以降は、日本全国で50軒を超える古民家を再生してきています。当時、カールさんの事務所が人出不足だったこともあり、渡辺さんはレタスの水耕栽培のインターンと並行して、カールさんの事務所で事務のアルバイトをすることになりました。
「カールさんと一緒に時間を過ごしていく中で、カールさんがこの建物を飲食店として活用できないかと考えていらっしゃることを知ったんです。私は飲食店での実務経験もあるし、なにかお手伝いできることがあるかもしれないと思いました。食品衛生責任者の資格を取るなどとプロジェクトが動き始めたタイミングで、今度は東京や北海道で17年間フレンチの修行をしてきた地元のシェフにたまたま出会ったんです。カールさんの思いと、この場所ありきでひとまず動き始めたら、どんどん必要なピースが見つかって、組み合わさっていったんです。」
▲店名の由来となった、カールさんのポートフォリオ
様々な出会いを経て、芸術祭の開催に合わせ、お店のオープンを2015年の6月に決めました。同年のゴールデンウィークにはプレオープンという形でお店を開くと、好評に。当時シェフはまだ自宅でカフェを開業していたため、「澁い」は基本的に渡辺さんがひとりで営業をしていました。毎朝シェフが仕込んだ料理を取りに行き、それを渡辺さんが盛り付けして提供するスタイル。プレオープンの期間中、その料理が毎日完売する盛況ぶりでした。
「想像以上にたくさんの方にご来店いただけたので、色々なことが予測できていなくて当初は全てが後手になってしまって。『こんなことが起こるのか!』と経験しては、その対応に追われるという感じでした。少しずつ人生が変わっていったというより、うわーっと何かが起こるような感じで、怒涛の勢いで変化した1年半でした。試行錯誤を繰り返し、今ようやくお店らしくなってきたのかなと思っています。」シェフも自身のカフェをしばらく閉店し、「澁い」に専念してくれることになりました。
これまで近隣になかったタイプのお店を、いろんな人と出会うことでオープンさせた渡辺さんですが、自身はゼロから物事を生み出したわけではないと言います。
「私は、人から情報を引き出すことしかやってないんですよね。人と出会って、その人の得意なことやできることを聞く、その積み重ねと組み合わせで今に至っているんです。だから、全て元々あったものを、ただ繋げただけなんですよ。私は人と場所と、それぞれの思いをつなげる役目だったんだなって思っています。」
今後は、近隣の農家と「澁い」の連携を強めていくことが目標のひとつだそう。「オーガニック栽培に力をいれている若手の農家さんを応援する意味でも、私たち『澁い』で需要を増やすことができたらと考えています。小さなローカルビジネスのような形で、地域の農家さんとうまく連携回していくことができるようになればいいですね。」
▲「澁い」では地元の野菜や隣の津南町のブランド豚「津南ポーク」、新潟地鶏といった地域の素材を使用することにこだわっている
毎日が新鮮な驚きと充実感に満ちた十日町市松代での暮らし
渡辺さんは、お店のマネージメント業の他にも精力的に活動しています。伝統工芸士の方に教わりながら、機織り機を使い自分で織った反物を着物に仕立ててもらう。自宅を短期滞在者に貸す民泊(Airbnb)では国内外からのゲストをおもてなし。自身が「ズボラ菜園」と呼ぶ家庭菜園で草むらの中からかぼちゃを発見したりと、日々新鮮な驚きとやってみたかったことに挑戦し充実感を得ています。中でも、今年デビューしたという狩猟について語る熱量はとてつもなく大きく、楽しい雰囲気に満ちています。
「以前から自分で食べるものを、自分の手で得たいと思っていたんです。今は設備や施設がないので自家消費しかできないのですが、今後はお店でもジビエ料理を出したいですね。これはお店としての大きな目標です。」
東京にいる頃は金銭的なことにばかり目が向いてしまっていたという渡辺さんですが、移住後は大きく変わったと言います。
「東京では、全てのことがお金と交換でした。でもここでは、私がパソコンで作業をしたり田んぼのお仕事を手伝った代わりにお米をいただいたりするんです。ご近所の方が玄関にお野菜を置いていってくれることもあります。松代での暮らしにももちろんお金は必要なのですが、それ以外のオプションがあることがとても面白いですし、ありがたいなと思います。私も50年後、近所に越してきた若い人たちに野菜を分けてあげられるようになっているんだろうか、そうなりたいなと思いますよね。」
▲旅館で使われていた食器類やカールさんの個人的なコレクションなどをレストランでは使用している
地方は都会よりも、やりたいことを実現しやすい
移住を考えている人には、気軽に訪れることを勧めたいという渡辺さん。
「気になったらその場所へ行ってみたらいいと思います。住まなくても、遊びに行くだけでも。行ってみないとわからないこともたくさんありますしね。それで、訪れた際にはその地域の人をリスペクトして、ちゃんとコミュニケーションをとることが必要だと思います。知らない人が突然地域に入るというのは、地域の方にとっては嬉しい反面、戸惑いもあると思うんです。だからこそ、いかに地域の方と上手にやっていくかというのは重要ですよね。そういう意味では、私はにいがたイナカレッジのインターンとして地域に入らせていただいたので『ここで働いています』という肩書きがあったのはとてもありがたいことでした。身元がしっかりしているなら大丈夫かな、という感じでみなさん優しく見守ってくださっていたのだと思います。」
地方は、都会に比べて色々な可能性が実現しやすいと渡辺さんは話してくれました。「結果的に、やりたいと思っていたことは全部叶えられそうな感じがします。やりたいなと思っていたことを口に出すと、物理的なことは不思議にクリアしていくんですよね。」
家庭菜園をしてみたいと思っていたら畑付きの家に住めることになったそう。そして元々興味のあった機織りに関しても、織物産業が盛んな十日町だけあって、教えてくださる伝統工芸士の方がいたり、縁あって機織り機を2台譲りうけることにまで発展しました。
「一人分くらいのお米が作れる、ちっちゃな田んぼが欲しいと思っているんです。言えば多分田んぼもなんとかなるんです。だからあとは自分の覚悟次第ですよね。やるって決めたらやらないと怒られちゃうから。」渡辺さんは「あははは!」と快活に笑いました。
▲お寺の絵天井がはまっていた枠を棚として再利用。店内のインテリアや内装は、全てカール・ベンクスさんが手がけている
すでにこれだけ様々な活動をされている渡辺さんですが、さらなる展望を語ってくれました。「十日町には、工芸や農業、食に関する体験や、見て回る面白いスポットがたくさんあります。けれど、それを取りまとめるものがまだないんですよね。だから、点になっている物事をつなげて、日本の他の地域や海外の方が遊びに来やすいプラットフォームを作って行きたいと考えています。地元である東京には、地方での暮らしや旅に興味のある友人や知人がいて、松代に遊びに来てくれることも増えました。これは東京で生まれ育ったメリットだなと思うので、向こうに生まれてよかったと思える瞬間でもあります。お店の集客だけでなく、地域全体としての交流人口の底上げをしていくために、観光コーディネーター業のようなこともを仕事にできればと構想中です。」