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2017年5月18日 Furusato

自分たちなりの復興と移住スタイル。いわきは人の輪が繋がる街

福島県いわき市は、県内で最大の人口と面積を誇る街です。気候は穏やかで県内では一番温暖。フラガールが生まれた街としても有名です。木田修作さん・久恵さんご夫婦は東京都内で働いていましたが、福島の復興に関わりたいと、いわき市への移住を決意。現在、お二人は地域の活動に積極的に参加。小冊子『とまり木』を発行するなど独自のスタイルで復興に貢献しています。

ボランティア活動と、転機となった震災

ご主人の木田修作さんは青森県生まれで、大学進学を機に上京。卒業後の就職先は東京のテレビ局で、記者として政治部で政治家の取材や、社会部で事件事故の取材を担当しました。テレビ局の報道記者はとても多忙で、修作さんは毎日朝から夜まで仕事に追われる生活だったそうです。
一方、奥様の久恵さんは福島県中通り地域の生まれで、地元の高校を卒業後は栃木県内の大学に進学しました。大学2年生の時に、ネパールのボランティア活動に参加。このとき同じく現地に来ていたのが、当時すでに5回参加していた修作さんでした。

「海外に興味があって、ボランティア活動ができたらいいなあと思っていた時に友人からネパールのボランティアの話を聞き応募しました。現地では学校を作る活動をして、建材の砂やレンガを運びました」と当時の活動を話してくれた久恵さん。実際に興味のあることはやってみる、行ってみる。この経験が現在の生活や仕事にも生かされていると話します。

修作さんが仕事で忙しい毎日を送り、久恵さんが就職活動をしていた2011年3月に、東日本大震災が起こりました。その後、修作さんは震災や原発事故の取材で何度か福島を訪れたそうです。

「甚大な被害をもたらした災害でしたので、一生の仕事になる取材だと思っていました。」

しかしながら2年、3年と時が経つと現場を訪れ取材をする機会が減っていき、都内で起きる事件事故の取材を主に担当することが多くなったそうです。その時の心境をこう語ります。

「ずっとこう…、心に引っかかるものがあって、福島はあんなに大変な状況なのに。せっかく報道にいるのに、自分はこれでいいのかな?そう思っていました。」

福島―いわきでの一場面

一方、久恵さんは被災した地元福島県を気にかけながらも、東京都内の会社に就職して上京。日々の仕事に追われて、上京後はなかなか福島へ行くことができなかったそうです。

「私の実家の方は被害があまりなかったのですが、同じ県内でも沿岸部は被害や影響も大きく、なかなか足を運べないでいました。東京への憧れもあり就職はしたのですが、それでも福島のことが気になってもやもやしていました」と久恵さんも心のどこかに引っ掛かりがあったようです。

 

初めて訪れた福島南相馬市。そして生まれた思い

そして震災から4年目、福島県と久恵さんを繋ぐ機会が訪れました。

「南相馬市小高区で若者を地方に派遣するフィールドワークをNPO法人ETIC.(エティック)が行うことを偶然耳にしまして、思い切って参加することにしました。」

NPO法人「ETIC.」は、社会の様々なフィールドで新しい価値を創造する起業型リーダーを育成し、社会貢献することを目的としています。久恵さんが参加したのは、地震・津波被害のほか原発事故の影響で全域が避難区域に指定された南相馬市小高地区で被災地復興、地域活性化・まちづくりを行うというものでした。

「実際に参加してまちの様子を目の当たりにすると、想像していたのとは全く違いましたね。衝撃を受けました。修作さんにフィールドワークの話をしたら、行きたい、やってみたいと。それならいい機会だし、仕事に区切りをつけて南相馬に一緒に行こう!となりました。」

修作さんは当時のことをこう振り返ります。

「震災後ずっと気になっていたこともありますし、もともと30歳の節目に自分の人生を見直そうと思っていましたので、福島行きを決めたのは自然な流れでした。思い切ったね、と周りの人たちからよく言われるのですが、東京にいるより気持ちも晴れるし、記者として例えるなら『なんでそこにすごい現場があるのに行かないんだ?』という心境でした。」

当時を振り返る修作さん

その後、久恵さんが参加したフィールドワークの報告会では、他地域へ入っていた方々の報告を聞くこともできました。

「三陸各地区のフィールドワークの報告だったのですが、海を復活させるにはどうするか、どの海産物を売りにするか?という議論ができる地区もあるんです。けれど小高町は住民が戻ることができない街をどうするか、と簡単には答えが出ない、そして重さも全く違う問題と向き合っていたんです。」(修作さん)

 

住む場所も仕事もない二人。決めたのは現地に行くことだけ

福島県への想いが一致し、二人は勤めていた会社を退職。そして南相馬市で家探しを始めました。しかし、南相馬市内では住宅不足から家そのものがまったく見つからなかったため、少し南下したいわき市内で探すことに。

「いわき市との出会いは偶然だったんです。それも縁だったのかもしれませんね。」

いわきの海岸

その後2015年6月に、無事にいわき市内で家を見つけ移住したお二人。しかし仕事を決める前の移住に、不安はなかったのでしょうか。

「二人とも次の仕事を決めるよりも先に、早く移住したかったんです。なんとかなるかなという思いもありました。」

移住当時の仕事探しについて語る二人

しかし実際は、移住後も仕事が決まらない状態が続いたそうです。

「はじめは復興支援の仕事を探していたのですが、なかなかうまくいかなくて。それなら仕事は仕事で別で探して、そういう活動は自分の時間でやろうと思いました。」(修作さん)

その後、修作さんは市内のスタジオカメラマン、久恵さんはいわき市の北部に接する広野町の生活支援相談員の仕事に就きました。なお現在は、お二人とも新たなお仕事に就いています。

移住してからは時間に余裕ができるようになったと話す木田さんご夫婦。生活のリズムが変わったことで充実した毎日を送っているそうです。

「東京にいた時とは違い、休みの日に起きたら昼ということは無くなりました。夜は早く寝るし、休日は基本どこかに出かけています。距離は関係なく、互いの行きたいところに行っていますね。」(修作さん)

「南相馬だけでなく県内各地のいろいろなイベントやワークショップにも参加しやすくなって、距離が近づいたのもよかったです。休みの日にやることの方が多いくらいで。行きたいところに行けるようになって嬉しいです。」(久恵さん)

新しい生活スタイルについて語る久恵さん

 

「玄玄天」の実行委員をはじめ、地域活動にも積極的に参加

木田さんご夫婦は仕事とは別に、いわきまちなかアートフェスティバル「玄玄天」の実行委員としても活動しています。「玄玄天」は、現代美術の作品展示を主軸とする街歩き型の芸術祭。いわき市の新たな芸術・文化を切り拓く為の複合的文化活動です。「玄玄天」とお二人の出会いは、移住後に参加した小高区の祭りの手伝いがきっかけでした。

「たまたま『玄玄天』の実行委員の方がいらっしゃって、第2回開催に向けたミーティングがあるから来てみない?と誘われました。興味が湧いて行ってみたら既に2015年の実行委員になっていました。」(修作さん)

その後すぐに活動に参加したお二人は手応えを感じ、2016年に行われた第3回の「玄玄天」にも実行委員として参加。アート作品の搬入や作家とのやりとり、展示作品の決定や展示会場探し、冊子づくりに当日の受付業務まで幅広く業務に携わりました。

「もともとアートフェスティバルに興味があったので、こうして関われてとても楽しいです。」(久恵さん)

「『玄玄天』のパンフレットは、反対側から見て頂くと街歩きガイドブックの『てくてくてん』になっています。『玄玄天』は高い空を表現した言葉ですが、『てくてくてん』は、地面を歩き見つめていくイメージ。暮らしている場所を取材して街を見つめ直すワークショップ『フリーペーパーのつくりかた!』に参加したみなさんと作りました。」(修作さん)

両側から楽しめる『てくてくてん』と『玄玄天』
▲両側から楽しめる『てくてくてん』と『玄玄天』

いわき市は一年を通して様々なイベントや催事が行われている活気のある街です。こういったイベントなどに積極的に参加して地域の人たちと仲良くなることが、移住生活をスムーズに進める手助けにもなるとお二人は話します。

「面白そう!と思ったら実際に現場に足を運ぶこと。やってみたい、行ってみたいという意思表示はハッキリしたほうが良いと思います。遊びに行ったつもりがいつの間にか手伝うことになっていることも多いですよ。東京に比べると参加へのハードルが低いと思います」と修作さん。

久恵さんも同じように感じていました。「紹介してもらった所に行ってみるといいですね。偶然その場にいた人が、実は繋がりがあったということもありますよ。」

 

二人の記録。『とまり木』のはじまり

様々なイベントがあるいわき市で刺激を受けたお二人は、また新しいことを始めました。

「福島県に移住して半年くらい経った頃、私たちもそろそろ何か始めたいね、と思うようになりました。二人とも“物を書く”ことが好きでしたので、近くにいる面白い人を取材して冊子にできたらいいなと。」(久恵さん)

そんな思いで制作し始めた『とまり木』は、“ここに来ればほっとできる、次に向かう元気が湧いてくる、そんな場所でありたい”との思いで作られた、心温まる優しい冊子です。2016年の5月に『とまり木第1号』を発行。その後2017年の1月に完成した第2号では、お二人が取材した記事の他に、いわき市を中心に活動する写真家・中村幸稚(なかむらたかのり)さんの作品や、同じくいわき市在住の岡田陽恵(おかだはるえ)さんのエッセイなど、お二人が福島に移住をしてから知り合った方々の作品も載せています。

時には枝のように。時には鳥のように。
▲時には枝のように。時には鳥のように。

「『とまり木』は冊子でもあり、自身の記録でもあり、メディアを自分たちで作ったらどうなるのかという実験でもあります。冊子を発行してSNSで告知を流すと、すごく遠い地域に住んでいる人が買ってくださったり、新しく知り合いになった人もいたりして面白いなあと思いました。」(修作さん)

何かアクションを起こせば、反応が起こり、新しいことへ繋がっていく。そう実感したそうです。

「福島県での活動の軸として、今後も発行を続けていきたい」と久恵さん。次の発行は2017年の夏頃を予定しているそうです。

 

無理をしないで自分にあったベストな移住を。

最後に、移住先での生活を充実させるポイントをお聞きしました。

「移住というと起業や地域活性が多いですが、地域の企業や仕事を知って、土地の風土とかを知るのも大事だと思います。僕たちはまず移住しちゃったけど(笑)、準備は大事だと思いますよ」と修作さん。仕事とやりたいことを別にしているからこそ感じるポイントかもしれません。そして偶然住むことになったいわき市だからこそ思うところも。

「移住して面白くない街はないと思います。街は人が住み歴史がある。毎日何気無く通り過ぎていてもお店に入って話を聞けば、驚いたり、知らなかった話はいっぱいあります。日々の延長線上にあるものをもっと見ていくと街はもっと面白いのでは?と思います。現場から得られる情報は大きいですね。」(修作さん)

「興味のあることにはどんどん参加して。でもできる範囲でやればいいし、無理はしない方がいいと思います。」(久恵さん)

移住のポイントを語るご夫婦

さらに今後の展望をお聞きすると、「『行く』『やる』『続ける』ですね。仕事ではなく生活としてやっていることがどう広がっていくか楽しみです」と話してくれました。そして移住のきっかけとなった小高区はお二人にとって今でも大切な場所、これからも関わり方を考え続けたいと話します。

「行先はいつも『とまり木』です。」

木田さんご夫婦は、今置かれている状況で考えながら、迷いながらも移住生活を模索し続けています。その姿は飾らず、背伸びせず、等身大のままだからこそできる移住を示しているようでした。

取材先

会社員/木田修作・久恵(きだしゅうさく・ひさえ)さん

木田修作さんは東京で報道記者として被災地の取材を経験。久恵さんは南相馬市の活動に関わっていたことで、より現場に近いところで復興に関わりたいと、福島県への移住を希望。久恵さんが参加したフィールドワークがきっかけで、浜通りに住もうと思い、家が見つかったいわき市に2015年6月に移住。同年10月に入籍。いわき市内で勤務しながら、いわきまちなかアートフェスティバル「玄玄天」の実行委員や、地元新聞のコラムの執筆、冊子『とまり木』の発行など、自分たちなりの福島や東北の発信の仕方を模索している。
とまり木 HP:http://10marigi.info/

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