高校を出てすぐ窯業指導所へ。陶芸の道に没頭した40年間
山崎さんはもともと茨城県水戸市に生まれ、地元特産の「笠間焼」を身近に感じながら育ってきた。窯元の出身というわけではなかったが、学校を卒業したのちは「陶芸で身を立てる」ということを決意し、以来およそ40年もの間、まっすぐに、陶芸の道を歩み続けてきた。
山崎さんは「僕は作家じゃないんです。あくまでも職人。」と自らを謙虚に語る。ほがらかな表情と語り口からはあまり職人気質を感じさせないが、ろくろの前に座れば表情は一変し、妥協を許さぬ険しい表情に変わる。手先の感覚だけで土塊から寸分違わず等しい形を仕上げてしまうさまは、紛れもなく「名人」の技である。
「僕は高校を出てすぐに、笠間の窯業指導所に研究生として入ったんです。
そこではいろいろな試験や検査をしましたし、粘土や陶芸のこともいろいろ勉強しました。とにかく何でも手伝いましたね。
その後しばらくの間、笠間の窯元で下働きをしていました。この時には量産の焼き物をひたすら、毎月2000個ぐらいは、手作りで作っていましたね。」
山崎さんはいともたやすそうにろくろを操り、鉢の形を作りながら、我々に鉱物や金属など元素の名前、化合や還元の話題などを交え、焼き物の奥深さを説いてくれた。その間も、山崎さんの手元は寸分も狂わない。
「それからは、栃木県の窯元に就職して、那須塩原で職人をしていました。
いわきのこの場所を知ったのは、その頃のことなんです。当時、魚を食べたいと思った時には、白河から御斎所街道を通って小名浜に出ていまして、その途中で白水阿弥陀堂の近くを通るんですけれど、阿弥陀堂からすぐの場所に、石炭を積み出すための場所が、炭鉱資料館ということで残っていたんですね。」
山崎さんは海に行くたび、何度もその近くを通って気になっていたというが、初めて行ったのは2007(平成19)年のことだった。
「この時は何も考えずに、ただ興味があって石炭の出ているところを見に行ったんですが、石炭の層を挟むように粘土の層があって、この瞬間、『常磐夾炭層』(じょうばんきょうたんそう)っていう言葉を思い出したんです。」
運命的な粘土との出会いが、山崎さんをいわきに導いた
実は山崎さんが「常磐夾炭層」という言葉に出会ったのは、窯業指導所に入った1974(昭和49)年のことだ。その前年、1973(昭和48)年に作られた同指導所の報告書のひとつに、常磐夾炭層についての報告があった。
「30年以上も昔のことだったので、それまで完全に忘れていましたけれどね。
この常磐夾炭層というのは、富岡町から茨城県の高萩市まで、常磐炭田に沿って90キロぐらいの範囲に広がっている粘土の層でして、海に向かってなだらかに傾斜しています。ですから、山を辿っていけば、どこかで粘土の層が出るっていうことは明確でした。」
この粘土を見つけて強く興味を惹かれた山崎さんは、古巣である笠間の窯業指導所に分析を依頼した。その結果、陶芸に使える土であることが確認されたのだ。
「今は便利な時代になって、材料屋さんのホームページを見て、どの粘土をどれだけ欲しいかをチェックを入れれば、次の日には届くんです。確かにすごく便利なんですけれど、それじゃ全国どこでも同じものになってしまいます。
でも、同じことを見つけた土地でやれば、それは特産品になるじゃないですか。この粘土に出会って、僕はいわきに引っ越そうと決意しました。」
こうして山崎さんは粘土層を見つけたその年のうちに、現在の場所に移住した。
美しい青紫は、いわきの粘土にしか出せない色
「常磐夾炭層の粘土は、鉄分を5.82%も含んでいて、工業的に見れば不純物が多い粘土になります。有田焼とか瀬戸焼のような白っぽい焼き物というのは、不純物がほとんど無いですから色も出なくて、絵付けをする時に、そこに金属で色を付けているんです。
でもうちで使っている粘土の場合、粘土以外のものが多いので、そのまま焼くと、茶色っぽい色合いに仕上がります。これに一定の配合をした白化粧土を重ねると、青紫色に窯変発色するんです。純度の高い粘土に重ねてもこの色にはなりませんから、まさに“いわきの色”なんです。」
実は、この化粧土ももとを辿れば、いわきにゆかりのある耐火レンガ会社から分けてもらっている材料で作っているという。
いわきの粘土が持つ茶色と、山崎さんがそれに合わせて特別に配合した化粧土。このふたつが山崎さんの手を経て合わせられ、奇跡的とも言えるブルーが生まれる。これはおそらく、世界でも山崎さんだけが出せる色だろう。
「こんなに素晴らしい粘土があるのに、どうして昔の人は使わなかったのかと思うでしょう。でも、確かに、こういう不純物が多い粘土だと、温度ムラの激しい伝統的な窯だと割れてしまうんです。昔の人がこの粘土を使わなかったのは、きっとそのせいでしょうね。
それから、この色が出る温度幅はとても狭いんですよ。厳密に温度を管理しているんですが、今でも思ったのと違う色になってしまうくらいで、非常に難しいです。ほかの人はまず使わないでしょうね。」
いわきに移住したからこそ、この粘土が手に入った
扱いが難しく、「じゃじゃ馬」とも言える粘土だが、山崎さんにとっては唯一無二のパートナーである。しかし、その入手ルートはけっこう意外だ。
「この粘土、実は土木工事の現場からもらっているんですよ。土木の業界では粘土って邪魔者でしかないんです。どんな硬い岩でも重機を使えば砕けますけれど、粘土だけは吸い付いちゃって落ちないんです。
だから土木現場の人は粘土をどこかに持って行ってもらいたいと思っている。僕はそれを知っていたから、こっちに住んで土木会社に顔をつないでおけば、きっと手に入るだろうと思っていました。」
その予想は見事に的中し、山崎さんはほどなくダンプ一杯の粘土を手に入れた。
「私がたまたま見つけた粘土のところで、風呂桶を10個並べて濾(こ)していたら、現場監督さんが通りがかって、『こういうのが一杯出ているところあるよ』って言うんです。かかったのはダンプで運ぶ運賃だけでした。」
「ineの会」に出会って、見てもらう楽しさ、喜びを感じている
偶然の出会いから始まり、いわきで新たな焼き物に取り組み始めた山崎さん。
震災の揺れでは多くの作品を失い、悲嘆に暮れた時期もあったが、今はすっかり笑顔になっている。
「作品を買ってもらうだけでも嬉しいけれど、こうして作っているところを見に来てもらったり、いわきの魅力を知ってもらえるのも、また嬉しいものですね。私は今まで職人としてずっとやってきたので、とにかくきちんとした製品を、納期を守って納めることを第一に考えていたんですが、こうして沢山の方に見て、知ってもらう喜びは、『ineの会』に参加してから特に感じています。」
山崎さんの作品には、写真だけでは伝わらない独特の輝きと色、精密に計算された「持ち心地」と重量バランス、ひとつひとつの表情の違いなど、手に取って初めてわかる“味わい”がある。
「唯芳窯」のほか、「生木葉ファーム」の直売所などでも販売しているので、ぜひ一度手にとってみてほしい。