現在の働き方をつくる地域との関わりのきっかけ
河村さんは、広告やテレビの映像作家アシスタントを経てフリーランスになり、コワーキングスペース「ちよだプラットフォームスクエア」に入居した。
「友人からの誘いでそのコワーキングスペースに入居してみると、NPOや地域活性のフィールドで働いている人が多かったんです。それまでそういったフィールドで活動している人とコミュニケーションを取る機会がなかったので、新鮮でしたね。僕も映像をつくれる立場だったので、そこからそういう人たちと仕事を通じて社会問題とか地域課題に触れる機会が多くなってきて今に至ります。」
そういった仕事に携わるうちに地方に行く機会も増えて、自身も地域に興味を持つようになったという。
「地域に関心が向くようになり、意識して問題について考え始めました。 そのことが映像作品に影響することも増えてきましたし、地域の魅力も感じるようになりました。」
山ノ家となる空き家との出会い
2010年1月。
河村さんが空き家について関心があり周りに話していたところ、新潟県十日町市で古民家再生のプロジェクトをやっている友人を通じて知り合った人から空き家を紹介された。
「一度来ないかと誘われ、初めて雪深い地域の真冬に行ったので衝撃的だったんです。商店街に空き家があったんですけど、雪が積もりすぎて場の把握っていうのができなくて、でもギャップのある場所を紹介してもらったっていう印象でした。」
当時、東京・恵比寿に「stART EBISU」というクリエイターが集まるコミュニティがあり、そこのメンバーだったgift_の後藤さんと池田さんに空き家の話をしたところ興味を持ってくれたので、雪が溶けた頃また訪れることに。
「十日町市は『大地の芸術祭 越後妻有アート トリエンナーレ』の舞台で、作品が点在しているんですが、雪が溶けたことで、やっと里山にアートがある景色の中にその空き家があることを認識できたんです。 こういった場所に空き家があるっていうのは、なかなか面白い機会なんじゃないかなとその時行った皆感じて、何かやっちまおうかと。」
そこから仲間と一般社団法人「ヤマイエヒト」を立ち上げた河村さん。
「運営について話し合っている時に、最初から両足を突っ込んでこの家地域に関わるっていうかは、行ったり来たりしてこの家と地域を面白くしていく感じっていうのが僕らの着地点だったんです。」
2010年秋、外装工事から着手し、東京と十日町とを何度も往復してカフェ&ドミトリー「山ノ家」を完成させた。
第二、第三の故郷をつくる
「外装工事を終えて冬を乗り越えたら東日本大震災だったんです。そこでいろいろ皆と考えましたね。それまでも、お前ら家が雪で潰れるぞって『山ノ家』の近所の人から電話もらって日帰りで雪下ろしに行ったりしていたので、地元の人と少しずつ関係性が生まれてきました。そうすると僕らも、「何かしに行く場所」っていうよりも「戻る場所」っていうように意識が変わっていったんですよね。そういう時に東日本大震災が起きて、これが東京で起きていたらどうなっていたんだろうねと考えた時に、当時まだ完成していなかったのですが、『山ノ家』は戻って来れる場所じゃないかと。」
河村さんの考えが変わっていったのは、家そのものよりも人から感じたことが大きいという。
「第二、第三の故郷を考えていかなきゃけないなと意識するようになりました。そういったことを考えながら2011年夏に『山ノ家』をオープンさせたんです。オープン以来、ワークショップや地元のお祭りの拠り所とかで機能し始めて、地元に受け入れられるようになりました。」
無事にオープンしてから2011年秋頃から河村さんは、一旦「山ノ家」の運営から抜けて次のプロジェクトに取りかかった。
(現在はgift_が運営を継続中。)
林業を仕事として改めて解釈する
その後、友人の紹介で、静岡県富士宮市で森の活動をしているNPO「森の蘇り」の間伐体験に参加した河村さん。
「そこの理事長の話を聞いたり、皮むき間伐っていう木を倒さなくても日の光を取り込むことができる間伐の作業をしました。その間伐の総称を『きらめ樹』というんですが、その作業を通じて日本の森がすごく荒れていることを痛感しました。」
従来の業者や山主が木材の需要難により森が放置されている状態に対して、素人が森へ入り間伐作業をするという考えで動き出したのが「きらめ樹プロジェクト」。NPO「森の蘇り」が小規模の林業として、そしてさまざまな人が体験できるプログラムをサポートしたいという思いで立ち上げた。
「自分でもサポートできるところはしたいなと思って始めました。簡単に言うと、都会の人間をツアーなどを通してで森に放り込む役割です(笑)。そこから始めたことも僕にとっては“行き来”になっていたんです。都市と森とを行き来するっていう。」
夏に木の皮を剥いて時間が経過すると、木の葉が落ちて枯れていくため、その時点で日の光が入って間伐の効果が生まれる。
冬に立ち枯れさせた木を倒すが、水が抜けているためとても軽く、子どもや女性でも持ち運ぶことができるという。ツアーで間伐した材を活用し、人を巻き込みながら材を流通させるプロセスをデザインすることで、プロジェクトベースからビジネスベースへ持ち込むことがこれからの課題だ。
「ローカルシフトする時にみんな仕事の部分って悩むところじゃないですか。森や自然や農業と、お金との関わり合いも含めてどう触れていけるかっていうのはやってみないと分からないもんです。その核心でもある、「実際に体験する」というところが『きらめ樹プロジェクト』の狙い所だと思っています。」
河村さんの理想のワークスタイル
「移住したいという想いもあるんですけど、『山ノ家』をつくった時に出てきた“行き来”という考え、そして“やっぱり東京(都市)が好き”っていうのもあるんですね。自然の中に居るのもクリエイティブなんですけど、東京に居るのも刺激があるから何とかしたいねと。そういうのもある意味口実として、拠点として活かしながら自分たちがちゃんと仕事をできる場所、コントロールできる場所として『山ノ家』が生まれました。」
「今、森と都市とを行き来しているっているのも、僕はまた違う作用が生まれてきています。自分がやっている映像を創ることを、地方に居る時の仕事にするっていうのはいくらでも考えられるんですけど、地方ならではの産業に繋がる仕事って言うのを僕はまだやったことがなかったので、林業を本格的に始めて仕事として本格的に持っていくのも方向としてあるんじゃないかなと思っています。」
行ったり来たりの距離感を河村さんに尋ねると、
「行き来というのは、時間と距離とコストがつきものなので、それが自分にとって何なのか向き合う必要があります。僕らも『山ノ家』をつくっている時は時間とお金、結構なコストがかかりました。そのコストの部分を自分の中でデザインしていかないと続かないし、本当に移住した時も仕事で東京に来る必要がある人はその移動費まで考えなければいけないと思います。例えば移動している状態だからこそ集中できる作業を把握したり、早割の飛行機のチケットを予約しちゃえば、それに基づいた未来を自分で創り出しますし(笑)、ういった移動を伴った能動的な行動の創り方を自分に落とし込めるかを考え続けることが大切じゃないでしょうか。」
自身の経験を通じて、人それぞれ無理をせずに地方と関わるワークスタイルの可能性を教えてくれた。
[プロフィール] 河村 和紀
クリエイティブディレクター。映像をメインの生業とする。最近では渋谷〜代官山の接続工事のショートドキュメンタリーがYouTubeにて再生100万回を突破。一方、一般社団法人ヤマイエヒトにて新潟県十日町市のカフェ&ドミトリー「山ノ家」の立ち上げ、静岡県富士宮市で活動するNPO森の蘇りと国内の森の再生プロジェクト「きらめ樹プロジェクト」を行っている。映像以外のプロジェクトでディレクションや様々なコミュニティにジョインし、多岐に渡って活動をしている。