「純粋に音楽が好き!」歌のキャリアからスタートした人生
香川県出身のTOMOKA.さんは、高校卒業と共に渡米して音楽の道へと進みました。メリーランド州立大学音楽学部で声楽を学び、卒業後もアメリカの教会で働きながら音楽を学ぶ生活をしていました。
「日本でメジャーデビューを目指そうと思っていたので、アメリカからレコード会社にデモテープを送ったりしてたんですけど、どこも全然引っかからなくて…」
今後どんな風に働いていくのかが決まらないまま、25歳で地元香川へ帰ったTOMOKA.さんに、人生を動かすひとつの大きな出来事が起こります。
「帰国して1週間後ぐらいに、オーディション番組に応募したんですが、2000人ぐらいの中から勝ち抜いて、優勝したんです」
それは、夢にまで見たメジャーデビューへの切符を手に入れた瞬間でした。
それをきっかけに、東京で暮らすこともできたはずですが、地元に残る決断をしたというTOMOKA.さん。
「優勝したからといって最初から音楽で食べていけるわけでもないですし。東京は生活水準も高くなるので、実際に、東京に出てからアルバイト生活で、音楽活動はほとんどできない…っていう人もたくさん知っていたんです。だから、そういうのは嫌だなと思って、地元に残りながら、自分でボイストレーニングと英会話のスクールを立ち上げました」
アメリカ仕込みで英語の発音指導もできるボイストレーナーを売りに募集したところ、生徒さんは50名を超え、土日もない生活が始まりました。
「ありがたいことではあるんですが、朝から晩まで仕事で、生活のためのレッスンみたいな感じになってしまったんです。教えるのは好きなんですが、これがやりたいわけじゃない、私は何をやってるんだろうという想いが、しだいに強くなっていきました」
そして、2011年2月。東京へと引っ越し、シンガーソングライターとしての生活が始まりました。2011年3月に起こった東日本大震災の復興支援ソングとして、自身が作詞・作曲したオリジナルソング「Don’t give up!〜命がある限り〜」が幸運にも「神宮外苑花火大会」の公式テーマソングとして起用され、明治神宮野球場にて3万人の前で歌唱 したり、Jリーグサッカーチーム「カマタマーレ讃岐」の応援ソング「勝利の鐘」(自身作詞・作曲)を担当したりと、シンガーソングライターとして、才能を活かして生きていく道を歩んで行ったのです。
けれども、大好きな歌を歌って生きる。そんな華々しい生活とは裏腹に、TOMOKA.さんの心に小さな違和感の種が芽生えていきました。
思うようにいかない音楽の仕事と病気に悩まされる日々
「東京に住んでる時、すごく苦しかったんです。好きな音楽ができてるのに、めちゃくちゃ苦しくて、その苦しい理由がわからなかったんですよ。感謝が足りないのかなとか考えたりもしました」
TOMOKA.さんは、その苦しさの理由をこんな風に振り返ります。
「純粋に音楽が好きだという気持ちからスタートしたんですが、それが仕事になると、ただ好きというだけではだめで、ヒットソングを出さなきゃとか、周りからも売れることを期待されていると感じるようになりました。自分自身でも自然とそこを目指すべきだと思うようになって、でもやっぱり、努力だけで売れるものでもないですし…。そんな中でだんだん、モヤモヤが膨らんでいったんです」
そして、世界はコロナ禍へ突入。ライブやコンサートが軒並みキャンセルとなり、音楽業界は暗い影に覆われました。TOMOKA.さんも同じように影響を受け、生活の糧を失いました。のしかかる毎月の支払いや生きるのに必要な生活費…。苦しくなったTOMOKA.さんは、深夜働ける日雇いのアルバイトを探しました。
「支払いは待ってくれないから、とにかくキャッシュを稼がないといけないし、深夜だったら誰にもバレないし…という感じでした」
自分の本当にやりたいことができない生活。人の目も気になるけれど、稼がないと生きていけない。そんな状態だったと振り返ります。
さらに、TOMOKA.さんは、20代の頃から子宮の病気にも悩まされていました。5回の手術をするも完治せず、再発を繰り返していたといいます。
「なんで私ばっかり、こうやって病気を繰り返して何年も過ごさないといけないんだろうって、ずっと否定的に考えていました。でも、あるとき、病気は身体からのサインなんだと気づいたんです。ストレスがかかればかかるほど腫瘍が大きくなるし、痛みもどんどん強くなる。だから、私の中で何かを変えていかないといけない。手放していかないといけないという気持ちが強くなりました」
理想の自分と現実の自分のギャップが苦しかった
とにかく自分を変えたくて何百万円もするセミナーに自己投資をしたこともあったというTOMOKA.さん。けれど、学べば学ぶ程、良くなるどころかどんどん苦しくなっていったといいます。
「こうあるべきみたいなのがすごく強い方法だったんです。自分を否定しちゃったり、理想の自分と今の自分のギャップが苦しかったりと、自分に合わない方法ばかりで、変わっていく人も多い中、私は変わることができなかったですね」
それでも、自分の中できっかけが欲しかったとTOMOKA.さんは語ります。
「すごく遠回りな人生だなって今改めて思うんですけど…当時は、他のみんながうまく行っているように見えて、それに対して自分は、誰が見てもわかるような結果を出せてないということを、引きずっていたんだと思います。10年くらいはそんな状態だったんじゃないでしょうか」
自分の心が望むこと、まわりから期待されること、そして目の前の現実。そのズレがどんどん大きくなったタイミングで、TOMOKA.さんはあるリトリート合宿に参加しました。ちょうど、5回目の手術を受けた直後のことでした。
「売れることを目指していると思っていたけれど、本当の心の願いはそんなこと別にどうでもよかったんだって気付いたんです。私が本当に求めてるものってなんなんだろうと考えたとき、自分と自分の関わる人が、ただハッピーに生きていくっていうことしか出てこなかったんですよ。自分がハッピーで、自分の周りの人たちもハッピーっていう」
それは、自分の本当の願いに気づいた瞬間でした。それまで誰かの夢を自分の夢として追い求めていたTOMOKA.さんは、複雑に絡み合った考えがシンプルになったといいます。
「自分の歌で人の心に寄り添いたいとか、ハッピーにしたいって本気で思っていたけど、自分自身が全然ハッピーじゃなかったんですよね。自分がハッピーじゃないと人に幸せなんて与えられないし、歌は、私と私に関わってくれる人がハッピーになるという、そのゴールを叶えるための1つの手段でしかないっていうことに気づいた瞬間、今まであったモヤモヤが嘘みたいにバーンって無くなったんです!」
そして、流れに乗るようにして宮古島へ
そして、流れに乗るようにして、宮古島移住を決めました。人気の移住先となった宮古島で滅多に出ることのない、部屋数の多い一軒屋とも出会うことができました。2018年から通い始めて数年。当初はまさか移住するなんて考えていなかったとTOMOKA.さんは語ります。
驚くべきことに、移住して以降は病気が一度も再発していないのだそう。
「再発もしないし、痛みもないんです。宮古島に来てからは、幸福度ももちろん上がってますし、明らかに精神的な負荷がなくて、気持ちがとても安定しているんです。理想とのギャップに悩んだり、本当の自分の気持ちとは違う方向を目指したりすることがストレスになっていたんだと思います」
大人になるにつれて、『こうしなきゃいけない』や『こうすべき』に囚われて、自分で行動を制限してしまうことがあります。社会や人の目を気にして、自分の行動を抑えているのは、他でもない自分自身。当たり前に取り入れていた価値観を、自分にとって本当に必要なものなのかを疑ってみることで、自分自身の本当の願いが少しずつ見えてくる。TOMOKA.さんはたくさんの気づきを得たのだといいます。
「私自身も、色々な制限があったから、ブレーキを踏みながらアクセルを踏んでる感じだったんですよね。やる気はあるんだけど、なぜか重たくて進まない。結局それって、自分でブレーキ踏んでるんですよね。そういう意味ではこのタイミングで宮古島に移住したのも、私は大きな意味があると思ってます」
そして、TOMOKA.さんはこう続けます。
「今振り返って思えるようになったのは、結局全部全てOKだってこと。この経験をしていなければ、今の捉え方とか、今の考え方とか、今のこの現実って絶対にないんですよね。いろんな経験があったから、今これを語れるんだなあと思うと、全部意味があって、全部OKなんだって、自分が自分でよかったって思えるんです」
古民家改修プロジェクトで知った新たな関係の作り方
今年に入って、TOMOKA.さんは活動を本格始動させました。運命のようにして出会った大きな古民家を、宮古島初の多目的なレンタルスペースとして生まれ変わらせました。2022年3月から大工さんと二人三脚で改装を始め、たくさんの方の力を借りながら5月にオープン。TOMOKA.さんが化学物質過敏症なこともあり、ナチュラルな素材、土に還る素材にこだわったスペースとなりました。
調湿作用・消臭作用・防虫作用があるとされる、宮古島で作られた麻炭を、壁から天井まで空間全体に塗る作業には、トータルで16人もの方がボランティアでお手伝いに来てくれたそう。
「今までの仕事の仕方から、お金を支払わなければ誰も手伝ってくれないと思っていたので、私にとってボランティアを募集する事はとても大きなチャレンジだったんです。でも、断られたら断られたでいいやと思って、ダメ元でSNSで募集してみたら、何回も来てくれる人もいて、参加したみんなが『ありがとう。楽しかった!』って逆に感謝して帰っていく。これにはとても驚きました」
この経験は、とても大きな価値観の変化に繋がったとTOMOKA.さんはいいます。
「手伝ってくれた人は、本当に仲間みたいな感じだから、その人たちが本当に必要な時には私も助けに行きたいし、そういう関係ってなんか本物だなって感じたんです。お金はとても大事なものではあるけれど、お金でしか繋がってない関係っていうのは脆い。だから、こういう関係の作り方もあるんだなあと体感させてもらいました」
宮古島の自然からもらうエネルギーと時間の流れの中で、活動が広がる
現在は、そうしてできたスペースを必要な人に貸したり、ビーチウェディングで歌う「歌のギフト」のようなお仕事をしながら暮らしているというTOMOKA.さん。
最近、新たにチャレンジしているのが、特に働く女性を応援する「サブスク型のヘルシーなお惣菜屋さん」のサービスづくりだそう。
「料理は嫌いじゃないし、身体によくて美味しいものを食べたいけれど、毎日買い物に行って、メニューを考えて作って…というのは、やっぱりとても大変なこと。料理する時間を省略できて、仕事や他のやりたいことにもっと時間を使えたら…尚且つ健康を維持できたら良いなと常々思っていたんです。そんなのわがままだよなあと感じつつも、同じような人はいるんじゃないかな?と思い、サービスを真剣に考えるようになりました。そしたら丁度そのタイミングで一緒にやりたい!と私の思いに共感し協力してくれる人と出会い、試食会を開催したりサービスやメニューのアイデアを練りながら少しずつ準備をしています」
TOMOKA.さんが「わがままかもしれない」と感じた、仕事・家事・健康管理のバランスへの願望と葛藤。これは、たくさんの人が、特に多くの女性が抱えている課題なのではないでしょうか。この課題が解決したら、どれだけの人が羽ばたくきっかけを得られるのだろう…!
TOMOKA.さんがこうやって精力的に新しい夢に向かって活動できるのも、宮古島の環境が後押ししてくれているようです。
「やりたいことがどんどん出てきて、さらにそれを同時並行で進めているので、忙しいといえば忙しいんですけど、宮古島は自然からもらうエネルギーも大きいし、時間の流れがスローなんです。東京での暮らしは、自分も周りもセカセカしてて忙しい雰囲気だったんですが、それとは全然違うと感じています。人それぞれペースは違うし、宮古島の何が違うのかを言葉にするのは難しいんですけど…時間の流れがゆっくりというか、のんびりっていうか。そんな環境で忙しくするのが今はとても心地が良いんですよね」
宮古島に移住して、次々と活動分野を広げているTOMOKA.さん。
「人生を切り拓く」というと、強い意志と行動力が必要と考える人も多いかもしれませんが、TOMOKA.さんのお話から感じたのは、むしろ、導かれるような出来事の連続に身を委ねることのできる柔軟性と自我の手放しでした。
レンタルスペースには宮古島で作られた麻炭を使い、耳元で揺れるピアスは、苧麻(ちょま)という麻の繊維で作った糸で織られる宮古上布のもの。
宮古島の自然からエネルギーをもらって、自分の心地よさを大切に暮らすTOMOKA.さんの活動は、ますますTOMOKA.さんらしさを全開にして広がっていきそうです。