移住して1ヶ月で挫折。地域の噂はtwitterよりも速い!?
鯖江市は福井県の中でも一番小さな市。しかし、古くから眼鏡や和紙、越前打刃物、越前箪笥などモノづくりの町として栄えており、今もなお匠の技を受け継ぐ職人が多く暮らしている。そんな鯖江市の東部にある河和田という地域は、伝統的工芸品の指定を受けた越前漆器の産地。県外の大学生が地元の職人たちと交流しながら作品を生み出していく「河和田アートキャンプ」の開催など、 独自の取り組みがなされている地域だ。
TSUGIのメンバーは、ほとんどが「河和田アートキャンプ」の参加者である。新山さんも大学4年の時に初めて河和田の地に足を踏み入れた。
「大阪の中でもニュータウンと言われる場所に住んでいた私にとって、河和田はいわゆる『田舎』というイメージそのものでしたね。知らない人でもすれ違うと挨拶してくれるし、気持ちの良い場所だなと思いました。」
アートキャンプでは、学生代表として地域住民との仲介役を担い、地元メディアへの対応や市役所との折衝を行っていた新山さん。この経験を経て、自分が専攻する学問への考え方が変わったという。
「大学では建築を学んでいましたが、当時はリーマンショックの煽りもあり、不景気真っ只中。新しく建物を生み出すことよりも、今ある地域のものをどう活用していくかに興味が移りました。ちょうどその頃、河和田に地域デザインの会社が立ち上がるということで大学卒業と共に入社することになり、一人大阪から移住することになったんです。」
しかし、社会人1年目での移住は、思った以上に孤独で辛く、引越して1ヶ月で早くも挫折した。最寄り駅までは徒歩で1時間以上、車の免許はない。方言もうまく聞き取れず、周りには若者がいない。たった一人での古民家暮らしはtwitterよりも早く近所の噂になり、時には地域の自警団の人が見回りに来たこともあったのだという。
だが、程なくして転機が訪れる。50年に一度行われる近所の神社のお祭りでステージに引っ張りだされたのだ。
「大阪から移住してきた新山と申します。」
震える声で自己紹介すると、三百人以上の人たちが暖かく拍手をしてくれた。新山さんにとって、「初めて地域の仲間入りができたと思った」忘れられない出来事だ。
▲その後、壮年会の集いや地域の活動などにも積極的に参加し、次第に河和田に溶け込んでいく。
越前漆器がワゴンセールの中に…厳しい現状によそ者ができる事とは?
その頃、仕事では漆器産業の市場調査に携わることになった新山さん。漆器づくりに対する職人さんたちの誇りや熱い想いを知る一方で、都市部のショップに行くと越前漆器がワゴンセールとして売られている…そんな残酷な現状を目の当たりにする。
職人さんは技術はあっても売り方や伝え方がわからない人が多い。しかも、家族経営が多くリスクを冒せないなどさまざまな要因があって、新しい取り組みには消極的だ。一番身動きが取れるのはよそ者である自分。だからこそ正しい伝え方、見せ方で職人さんの想いを代弁するデザイナーになろうと、新山さんは本格的にデザインの勉強を始めた。
プライベートでは結婚をし、会社を退職。大阪や東京で働くという選択肢もあったが、アートキャンプを通じて交流のあった鯖江市の牧野市長からのオファーもあり、2012(平成24)年、行政のデザイン業務を担当する嘱託職員として新たなスタートを切った。
牧野市長は「鯖江はモノづくりを盛り上げる街。行政こそデザインが必要だ」という考えの持ち主。新山さんの良き理解者であり、TSUGIの立ち上げ以前から応援してくれている一人だ。
▲河和田アートキャンプに関わっていた学生時代から親交のある鯖江市の牧野市長と。
時を同じくして、アートキャンプを経験した若者たちが河和田の魅力に引き込まれ、続々と大阪から移ってきた。ある者は木工職人に、ある者は大学を辞めてメガネ職人に、またある者はNPO職員にと、新山さんの同世代が増えていった。それぞれが生業を見つけ、周りからは順風満帆の移住生活を過ごしていたように見えるが、必ずしもそういうわけではなかったのだという。当時のことをこう語る。
「皆、仕事は順調だったのですが、週末になると何もやることがなくて…。1日中エルパ(地元のショッピングセンター)で時間を潰したりしていましたね。」
そんな時、飲み会で将来の話になった。
「地場産業が低迷する中、10年後の河和田で今の産業は生き残っているかという話になったんです。私たちにはまだまだ未来がある。これからもこの地で暮らしていくのなら、今から自分たちにできることがあるんじゃないかと。せっかく縁があってこの地にいるんだし、自分たちで河和田を面白くしよう!という話になりました。」
移住から4年の2013(平成25)年、6月。仲間が欲しい、何かこの地に役立つことをしたいという想いをあたため続けていた新山さんたちは「TSUGI」として動き始めることになった。
「TSUGI」という名前には 「“次”の世代である若者がものづくりや文化を“継ぎ”、 新たなアイデアを“注ぐ”ことでモノ・コト・ヒトを“接ぐ”」 という思いが込められている。
自分たちが楽しいと思えることを形にする
まず最初にTSUGIが始めたのは「場所づくり」。メンバーの拠点として提供してもらった錦古里漆器店の1階をセルフビルドし、4ヶ月かけて「TSUGI Lab.」を作った。
▲仕事の合間を縫って自分たちで改装。今まで退屈に過ごしていた週末が一気に充実するようになった。
その後はワークショップの開催やWEBサイトでの発信、シェア工房づくり、各地で行われる展示会への出店など、自分たちで企画したことを次々と形にしていく。
中でも福井新聞の「まちづくり企画班」と共に手がけた「かわだ くらしの晩餐会」はTSUGIの方向性を決める思い出深いイベントとなった。
「かわだ くらしの晩餐会」は参加者自身が漆器づくりから関わり、完成した自分だけの器を使って福井の食を楽しむというもの。
▲参加者は木彫りのスプーンや漆器づくりを体験し、伝統食材をふんだんに使った料理に舌鼓を打った。
「河和田の漆器がこんなに素晴らしいなんて」「福井の食材がこんなに豊かだなんて」
参加者の多くが福井県在住の方だったにも関わらず、地元の魅力を再発見する人がほとんどだった。 そんな反応を見て、 ”地域の資源を見つけて磨き、良い伝え方を考えていく” 自分たちのやりたいことはこれだ、と新山さんたちは確信した。
今や県外にも広く「福井のモノづくり」を発信し続けているTSUGI。その活動はさまざまな作用を生み、TSUGIの想いに共感する仲間が増え続けている。
地域の未来のために投じるTSUGIの「次」の一手とは
これまでユニットとして活動してきたTSUGIであったが、2015年4月、合同会社として法人化。新山さんは市役所を卒業し、TSUGIの代表として本格的に始動することになった。
現在、TSUGIが力を入れているのはオリジナルのプロダクトづくりだ。その一つ、眼鏡に使われている素材「アセテート」を用いたピアス「Sur」はファンも多く、県外のマーケットに出店すると即時完売するほど人気なのだそう。今後はアイテムの種類を増やし、生活雑貨全般へ拡大していく予定だ。
TSUGIは順調に活動の幅を広げているように感じるが、新山さんはこう言う。
「TSUGIは『自分たちが楽しいと思えることをしよう』という思いが根底にあります。最初はゆるい気持ちで始めたのですが、活動の幅を広げていくにつれて求められるものも大きくなってきました。いわば、成長痛のような症状でしょうか。」
もっと実力をつけ、成長痛から本当の成長へつなげたい。物腰がやわらかく、普段は穏やかな新山さんの顔が引き締まる。インタビュー中、新山さんから「創造産地」という言葉が何度か出てきた。「伝統」という言葉だけに頼るのではなく、魅力のあるモノを作り、魅力のある会社を作り、魅力のある産業を増やしていくこと、それが新山さんの言う「創造産地」の定義だ。
河和田は作ることと生きていくことが密接な地。地域への愛情はもちろんあるが、それ以上に未来への危機感を感じずにはいられない。
「TSUGIの活動は草の根運動のようなものです。今すぐ何かが変わるわけではありませんが、少しずつ蒔いた種が育つことで河和田が創造産地となり、雇用が生まれ、IターンやUターンの選択肢になればと思っています。」
もちろん、河和田には今も伝統を重んじる職人さんが多く、新しい時代の流れに難色を示す人もいる。しかし、皆が目指すゴール地点は同じだ。「産業が潤い、地域が持続していくためにはどのような生き方をすればいいのか」という課題に向かって、今から動き続けていかなければならない。
新山さんはまっすぐに河和田の未来を見据えていた。