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2015年9月1日 手塚 さや香

若者が学び育つ“挑戦のまち”釜石市

「鉄と魚とラグビーのまち」として、昭和の半ばには製鉄業や関連産業で賑わいをみせた岩手県釜石市。

昭和が終わりを告げた1989年に新日鉄釜石(当時)の高炉の火が消え、その後の止まらぬ人口の流出に拍車をかけたのが2011年3月11日の東日本大震災でした。復興事業はピークを迎え、市内では大型ダンプが行きかっています。

長引く仮設住宅での生活や住宅再建など多くの課題がありますが、いまの釜石は、震災後にUターンで釜石へ戻った若い世代、「復興の力になりたい」と全国から集まった若者たちが、自らも成長しながら地域を盛り上げる、そんな学び育つ場になりつつあります。

地域ごとに異なる風土

人口約3万6000人の釜石市は、岩手県沿岸部のやや南寄りにあり、北は大槌町、南は大船渡市、内陸では遠野市、住田町に接しています。

釜石の特徴は、おおまかに「東部地区」「鵜住居(うのすまい)地区」「橋野地区」「唐丹(とうに)地区」の4つのエリアごとに、環境や産業がおおきく異なっている点にあります。

中心部は、JRと三陸鉄道南リアス線が乗り入れる釜石駅や市役所、2014年にオープンしたイオンタウン釜石などがある「東部地区」です。震災前は商店街の周囲に公共施設や飲食店や集まっていましたが、2011年3月の東日本大震災で津波が押し寄せ激しく被災。イオンタウンや商業施設「タウンポート大町」が2014年に相次いでオープンしたころから、個人経営の飲食店などの再建も進み、少しずつ人通りが戻りつつあります。

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「東部地区」の北には、津波被害のもっとも大きかった「鵜住居地区」や、橋野鉄鉱山が世界遺産に決定した「橋野地区」などがあり、鵜住居川に沿って民家が点在する山間の集落が続いています。

 

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「東部地区」の南は、養殖業などが盛んな漁村集落からなる「唐丹地区」。湾の形状に沿って曲がりくねった国道45号線を走れば、ところどころで復興工事が進む浜の先に海が広がっている様子が見て取れます。

いちばん人口が多いのは、「東部地区」内の西側エリアで、人口の約55%に当たる約2万人が暮らしています。海からは離れているため、他のエリアと比べると漁業や水産業とはつながりが薄く、企業の施設や社員向けの住宅などが多くあります。「同じ釜石でも浜と陸とでは『ひとっこ』(人柄)が違う」などと言う人もいます。

 

「挑戦のまち」として

釜石は「課題先進地」と呼ばれ、これからの日本社会が直面する課題を先取りしていると言われています。産業構造の変化とそれに伴う人口流出により、1963年の 9万2123 人をピークに人口は減少に転じ、地域の賑わいは薄れていきました。

高齢化率も34.8%(2010年時点)と全国平均23.1%(同)より大幅に高くなっています。

 

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そんな従前からの課題に加え、震災という大きな痛手をこうむった釜石ですが、震災を機に奮起し立ち上がった人たちが大勢います。

その象徴とも言えるのが、2013年に3年ぶりに復活した祭り「釜石よいさ」の運営の中心となったNPO法人「NEXT KAMAISHI」です。

代表の青木健一さんは、自身が専務を務める建設会社も被災し、膨大な市内のがれき撤去を進めながら、自身より若い仲間たちとともに、釜石のまちづくりを担う団体としてNEXTを立ち上げました。

「釜石よいさ」は、もともと高炉の火が消えた釜石に再び活気を取り戻そうと有志のグループが1987年に新たに始めたものでしたが、担い手の高齢化によって2011年で終了する予定でした。

青木さんや、NEXTの事務局長で、よいさ実行委員長を務める君ヶ洞剛一さんらが「震災を機に若い世代が釜石のために何かしなくては」と模索したうちのひとつが、消えかけたまつりの再生でした。

震災前から参加していた団体に加え、ボランティアで釜石に足を運ぶようになった企業や学生がそれぞれ団体をつくるなどして、今夏は震災前と同程度の1800人が参加しました。

 

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また、NEXTのメンバーでもあり、一般社団法人「三陸ひとつなぎ自然学校(さんつな)」代表の伊藤聡さんも、震災後にグリーンツーリズムの取り組みを発展させ、多くの人を呼び寄せるプログラムをつくっています。

 

「ヨソモノ」が地域とともに生き成長する

「さんつな」を通じて、短期ボランティア活動やインターンなどで釜石とかかわった20代がその後に市内に住まいを移して就職したり、さんつなのスタッフになるためにUターンした若者がいたり、と着実に都市部の若者を釜石に巻き込んでいく入口になっています。

釜石はもともと転勤族が多く、「よそ者も暮らしやすいまち」と言われてきましたが、震災後はさらに、復興や地域づくりに携わる「ヨソモノ」が活躍できる環境が整ってきました。それは市役所自体が「ヨソモノ」を活かす素地を積極的に作ってきたからこそのものでもあります。

その立役者とも言えるのが、釜石市の総合政策課や復興推進本部の職員たち。11年6月に財務省から市に派遣され、翌年副市長に就任した嶋田賢和さんやその後を受け継ぎ現在副市長を務める田中透さん、震災後に市職員に転身した石井重成さん(現まちひとしごと創生室長)らの発想を生かすべく、庁内や関係者の調整に奔走してきたプロパー職員たちの存在は欠かせません。

 

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市の復興支援員組織「釜石リージョナルコーディネーター」(通称・釜援隊)も彼らがいたからこそ生まれました。今は15名が活動しており、10名は、市内のNPO法人や唐丹・平田の地区活動応援センターなどの協働先で業務を行い、5名はマネジメント担当として活動中。

多くの「ヨソモノ」(一部は市内出身者)が市内の組織で活動しやすくするために巧みに計算された制度です。

 

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さらに、2015年3月から始まった「釜石○○会議」も、「東北未来創造イニシアティブ」を通じて首都圏などの企業から市役所に派遣された人たちとプロパーの職員とが一体となって運営し、釜石のまちに主体的にかかわっていく市民を増やす取り組みが始まりました。

課題先進地は、課題があるからこそ挑戦しがいのある地域です。そして地域も「ヨソモノ」も、ともに育ちともに挑戦を続けるまちとして、あたらしい地方都市の在り方を提示しています。

手塚 さや香
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私が紹介しました

手塚さや香

手塚 さや香2014年10月より釜石リージョナルコーディネーター(通称「釜援隊」)。釜石地方森林組合に派遣され、人材育成事業「釜石大槌バークレイズ林業スクール」の事務局業務や、全国からの視察・研修の受け入れを担当。任意団体「岩手移住計画」を立ち上げ、UIターン者や地域おこし協力隊・復興支援員のネットワークづくりにも取り組む。新聞記者の経験を活かし、雑誌等への記事執筆のほか、森林組合のプレスリリース作成や取材対応、県内の事業所、NPOのメディア戦略のサポートも行う。

人と風土の
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 「風土」という言葉には、地形などの自然環境と、 文化・風習などの社会環境の両方が含まれます。 人々はその風土に根ざした生活を営み、 それぞれの地域に独自の文化や歴史を刻んでいます。

 過疎が進む中で、すべての風土を守り、 残していくことは不可能であり 時とともに消えていく風土もあるでしょう。 その一方で、外から移住してその土地に根付き、 風土を受け継ぎ、新しくつくっていく動きもあります。

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