とにかく早く島を出たかった
「この辺でお昼が食べられるところはありますか?」という私の問いかけに対し、 「あ、少し歩いたところにありますよ。送ってきましょうね~。」とニコニコ笑いながら、おすすめの定食屋さんに車を走らせてくれる。道すがら、「ここを入ると民族資料館があってね、色々教えてもらえますよ。」「その道を右に入ると活版印刷屋さんがあって…」などたくさんの島情報も。「島宿御縁」の主人、岩永太陽さんはまるでガイドのようだ。
太陽さんが、生まれ育った島を出たのは高校の卒業式の次の日。今でこそ小値賀島の魅力を全世界に対して発信している太陽さんだが、子どもの頃は「なんで島なんかにいないといけないんだ」と、とにかく島を出たいと思っていたのだと言う。だからアメリカへの野球留学の話があったとき、理由はともあれ島を出れることが、そして大好きな映画を見て憧れていたアメリカに行くことができるのが嬉しくて行くことを決めた。
アメリカで始まった刺激的な生活の中、太陽さんは勉強に専念。短大から4年制大学に進み、TESOL(Teaching English to Speaker of Other Languagesの略。母国語を英語としない人に英語を教えるための教授法)を取得した。アジアで英語の先生になりたかったが、SARSの流行により断念し大阪で英語を教えた。海外を旅することが好きだった太陽さんは、その後もいくつかの職に就きながら、お金が貯まるとバックパッカー旅行を繰り返していたと言う。
▲岩永太陽さん
日本に戻り、ついに出会った「天職」
その後ワーキングホリデーでオーストラリアを訪れ、ケアンズやブリスベン、シドニーなどですごしていた太陽さん。シドニーでの生活が半年たった頃、太陽さんはまたしても暮らす場所を変えることになる。「おもしろそう」「やってみたい」というフィーリングで、流れに身を任せてきた太陽さんがついに天職に出会ったのだ。それは、日本を訪れた外国人観光客を案内する、ツアーガイドの仕事だった。
東京や大阪をスタートし、2週間~1ヶ月間観光客に付きっきりでお世話をしながら、富士山に京都など日本全国を旅をする。ほぼホテル暮らし、拠点という拠点もなく全国を転々とする生活は、気が休まらないようにも思えるが、考えてみれば太陽さんはきっとそれまでも、そうやって旅するように暮らしてきたのだ。
そして神戸で出会った奥様と意気投合し、結婚。子どもも産まれた。結婚当時から、太陽さんは将来の夢のことを、明里さんに語っていたのだそう。
▲明里さん。宿は港を一望できる高台にある。
島に移住するということ
太陽さんの夢。それは小値賀島に戻り、世界中からお客さんが来る宿を作ることだった。それでも、家族が神戸から島に移住するまでには年月を要したそう。明里さんにとってネックだったのは、お子さんのアレルギーだった。牛乳を3cc飲んだだけで呼吸が乱れたこともあった。「診療所はあるんですが、夜中に何かあったときどう対処できるのかがとても不安でしたね。ドクターヘリが来るといっても、島に着くまでに30分かかるんです。」
医療の問題は、小値賀島がこれからクリアにしていかなくてはいけない問題のようだ。妊婦検診も佐世保にいく必要があり、つわりの時期や臨月にも1週間~1ヶ月に一度、船に3時間揺られなくてはならない。「これから人口増やしてくってならね、月に1回でも婦人科の先生にきてもらったり、そういうことも大切ちゃうかな。」普段笑顔の太陽さんもこのときは真剣な顔で付け加えた。
それでも明里さんが移住を決断したのは、太陽さんのそれまでの仕事に理由があった。「ツアーの仕事は1ヶ月くらいのスパンで家を留守にするんですね。私も不安だったし、子どもにとって父親とこんなに会う時間が短いというのは、どうなのかなあと考えてしまって。それに、不自由のない神戸での生活は、なんだか堕落して行ってるような気もしていました。だから島で暮らすことは私も成長できるかもしれない、ダメだったら最悪帰ってきたらいいんだし、という気持ちで踏み出してみたんです。」
新鮮な驚きの連続
実際、小値賀での生活はどんな感じなのだろう。そんな質問に明里さんは次から次へと様々な体験を語ってくれた。散歩中に地面が動いているとびっくりしてよく見るとそれはカニの大群だったこと。台風が来る前に収穫される、粒の小さなお米のこと。そして赤土で育ったお米の糠が赤褐色だということ。汲取式トイレを初めて経験したこと。毎日宿で出される魚は、釣りが上手な太陽さんのお父様が釣っていること。「移住者の方にはテレビを持っていない方もいるんですが、子どもに本をたくさん読ませたいとか、自分とゆっくり向き合う時間を設けるというのは田舎ならではだと思います。テレビやメディアで時間を流すより、自分の時間をちゃんとつくって生きてるって感じがしますね。」
そして、久しぶりに神戸の実家に帰った明里さんは、お子さんの行動に驚かされたのだそう。「エスカレーターの乗り方を忘れてしまったみたいで、乗るタイミングがつかめなくて困ってたんです。それに、ガラス張りの建物なんて島にはないから、ばーっと走っていってどーん!とぶつかってしまったり。」焦っちゃった、と言いながらも軽やかな笑い声とともに話してくれた。
▲島宿御縁の部屋
「情報発信」で自分の仕事をつくる
家族が島に来て2年。宿はまだオープンしたばかりでバタバタの毎日だと言う。それでも明里さんは、神戸でずっとやっていたマッサージの仕事を再開させたいと言い、太陽さんも小値賀でガイドの仕事をしたいのだと、それぞれの今後やりたいことを教えてくれた。「今は宿が忙しくて、地図上で教えるだけですけどね、小値賀を知ってまた帰ってきてもらえるように実際にガイドしたいんですよ。話して、深くなったときに、つながりってできますけんね。」
太陽さんがよく口にする言葉、それは「情報発信」だ。「島でも田舎でもね、インターネットがある時代になったしね。発信さえしていれば、自分たちが楽しく暮らす人生ってのは手に入りますよ。もちろん大変なこともたくさんありますけどね。」太陽さんの情報発信は、日本国内のみならず世界も視野に入れており、ブログでは英語でのPRも忘れない。
小値賀島で宿をつくり、世界中から人を呼んでガイドの仕事をする。10年前考えられなかったことが、確かに今の時代には成立するのだ。島から飛び出し世界を旅して備えた力を、小さな島を訪れた人を楽しませ、島の魅力を伝えるために使う。家族で過ごす時間だって諦めない。「地方には職がない。」そんな言葉をもろともせず突き進む太陽さんの姿は、自分に力さえあれば、どこにいても理想の生活に近づくことができる、そんな見本のようだ。