東京暮らしから関前諸島へ
元々「40歳超えたら島暮らし、なんて冗談ぽく周囲には話していた。」という晶彦さんと、「60歳過ぎたら一次産業に携わりたいなと思っていた。」という紫乃さん。2012(平成24)年4月、それぞれがそれまでの東京暮らしを離れ、地域おこし協力隊の一員として岡村島に降り立った。当時はふたり共、「やっぱり、やりたいことは元気なうちにやっておかなくては!」という共通の思いを持っていたという。
「島暮らし」に憧れていた晶彦さんは、伊豆~小笠原~沖縄と本当に全国の島を回ってみたそうだ。しかしなぜそんな中、愛媛県でもあまり知られていない関前諸島を選んだのか。その理由を晶彦さんは 「この島は、自分が頭の中で描く島暮らしをそのまま再現したようにコンパクトにまとまっているからです。」 と話す。
「もともと離島で『就職』するつもりはなくて、何か商売しようと思っていました。だから、全く人が行き来しないところは厳しい。かといって、大きな橋が架かっている島だとコンビニとか大きなスーパーがあったりして、所謂『島感』みたいなものがない。岡村島は、愛媛側から見たら『離島』だけど、広島とは橋でつながっている。最低限の生活ができる機能はありながら、見た目は離島、というところが自分にはちょうど良かったんですね。」
紫乃さんも答える。
「私にとっても、ここ(岡村島)がずっと夢に描いていたような島で、もうここに永住したいと思いました。だから、地域おこし協力隊の面接のときに、他の地域なら辞退しますと断言していました(笑)。」
ふたりとも、なんとなく移住してきたわけでなく、「関前諸島がいい!」とかなりの強い確信を持って移り住んできたようだ。ただ、瀬戸内の『人間関係』というものは複雑である。関前諸島に限らず瀬戸内海はどのエリアでも激しい人口減少と高齢化が進んでいて、驚くべきことに、高度経済成長の時代にあっても日本全体の人口が増えるのをよそに、瀬戸内海だけはひたすら人口が減り続けていた。その原因として、「若い人たちは、人間関係が面倒くさいと感じ、なかなか島に帰ってこない」と指摘する専門家もいるくらい、人間関係が大変な地域とも言われている。
その点について、晶彦さんはこう話す。
「確かに、一般的に島というのは閉鎖的というか、よそから来た人に警戒心みたいなのがありますよね。でも、この島は協力隊に決まる前に何度か訪れた時もすごくウェルカムな感じで迎えてくれて、すごく雰囲気が明るい島だなあと思ったことを覚えています。」
島が本来持つ雰囲気の良さ、島の人々の人柄・・・そうした部分がふたりに合っていたのだろう。また、「人とのつながりという点でいえば、やはり地域おこし協力隊として赴任したことが大きい」と晶彦さんが付け加えた。どんな場所に移住しても、一番苦労するのは地域の中での人脈作りだからだ。
晶彦さんも紫乃さんも、既にこの関前諸島のほとんどの人々と顔見知りであるという。この取材は岡村島の役場支所の片隅で行われたのだが、窓口にやってきたおじいさんを指して「あの方も?」と聞いてみたら、「もちろんですよ」とふたりして笑顔で答えてくれた。
まるせきカフェをオープン、そして株式会社みかんの島設立へ
「移住してきたとき、岡村島にはこれといった名物がなく・・・珍しいものができれば島のPRになるんじゃないかと思って」
と、ふたりがまず取り組んだのが、島の名産となるスイーツの開発だった。2014(平成26)年3月には、「しまのわ2014」(2014(平成26)年広島と愛媛で行われたイベント「瀬戸内しま博覧会」)の開幕に合わせ、「まるせきカフェ」をオープン。そして、それまで飲食業の経験は全くなかったというふたりが開発したのが、看板商品の「ひめっこプリン」である。
卵の殻を割らずに中身を一旦全て取り出し、プリン液を注入して焼き上げるというひめっこプリン。
「晶彦さんがプリン大好きで。プリン好きの夢なんだそうですよ。」と話す紫乃さん。
「こういうプリンがないかなーってずっと待ってたんですよ。誰も作ってくれないから、自分たちで作っちゃった。」と、嬉しそうに話す晶彦さん。
卵の形をそのまま残したプリンを作ってしまう技術革新も素晴らしいが、このプリンが普通のプリンと決定的に違うところが2つある。ひとつは『殻のまま焼き上げることにより、断然卵の風味が出る』という点。そしてもうひとつは、『空気に触れないため、防腐剤が無くても、日持ちする』ということである。
晶彦さんの夢を叶えたという商品だけに、男性からの注文も多いという。あのスイーツ王子の的場浩司さんも「美味しい!」と唸ったそうだ。
やがては鶏を育て、卵を作るところから自分たちの手で実現させたいと語るふたり。その将来を見据え、紫乃さんが代表となり株式会社みかんの島を設立した。
「会社の事業としては、カフェもやるし農業もやります。農業は、カフェで出すものを作るための農業です。一般に出荷するためには作りません。よく農業を6次産業にしようという話がありますが、そうではなく、6次産業のために農業をやるという逆の考え方ですね。主に柑橘、野菜、ハーブなどを作ります。関前諸島に移住したい人、ここに帰ってきたい人の雇用の受け皿になれたらいいなという想いもありますね。」
その他、彼らが開発しているものは、様々な豆を組み合わせた焙煎珈琲「関前ブレンド」、トロピカルフルーツの一種である「フェイジョア」を使ったジャムなど多岐にわたる。ふたりだけでこれだけの開発を手掛けるのも大変そうだが、さらにはカフェの改装工事も全て自分たちでやってしまったという。
「島の人が僕らのことを気にかけてくれて、改装作業中に『大丈夫か~?』って時々のぞきに来てくれるのが嬉しいですね」と晶彦さん。
話を伺っていると、本当にふたりが島の人々と強い信頼関係でつながっていることを感じる。
先日はご近所の方からハマチを頂いたそうだが、その渡し方がなんとも斬新だったという。
「ご近所の方が『ハマチあげる』ていうから、どうやってくれるのかなと思ってたら、半身になったのが血だらけになってポストに刺さってました(笑)。」
すばらしい住民同士の密接な距離感。岡村島の人口370人、大下島100人、小大下島20人程度という、関前諸島全体でも500人足らずという小さな島々だからこそ生まれる素敵な距離感なのだ。
少し話を元に戻して、株式会社みかんの島が目指す「6次化と農業」について、晶彦さんが語ってくれた。
「よく6次産業化って言いますよね。でもね、この島に来て農業している人たちを見て分かったのは、もう忙しすぎて他のことできないのが当然だということなんです。」
実際に無理に6次化しようとしても、結局は仕事が分散してしまい、トータルの収入は増えないというのが現状のようだ。だからこそ、「今ある農業を6次化するのではなく、最初から6次化を前提としてそのための規模の農業をやる」というのがコンパクトなこの島には合っていると晶彦さんは説明してくれた。
昭和50年頃は人口1,600人ほどあった関前村。
「昔は金が取れるのと同じくらいの値段で柑橘が売れた」
「船から見ると島が一面オレンジ色に見えるくらいミカンの島だった」
そんな時代もあったそうだが、「そんな時代を取り戻すには、やはり若い人の移住が不可欠なのだろうか。」と晶彦さんが語る。
「この島で柑橘をやっていくなら、相当金額の高いものを作らないと難しい。耕作放棄地をまた畑に戻すのだってお金がかかるから。他のやり方でやっていくことを考えないと、人口は増えないでしょう」
現実を冷静に見つめ現場で行動する彼らの言葉だからこそ、説得力がある。そして、これほどまでに完成度の高いひめっこプリンを完成させたふたりの言葉だからこそ、さらに説得力が増す。これも2人の愛が成せるワザということなのだろうか。
36年ぶりの島の結婚式
元々は東京の地域おこしのイベントで出会ったというふたり。だが、関前諸島に一緒にやってきたときから、結婚の話があったわけではなかったという。
「一緒にここでやっていく中で、なんというか、愛が育まれたんですかね。やっぱり、同じものを目指して日々活動してますから。」
と照れながら語る晶彦さん。隣で紫乃さんも微笑む。
ふたりが結婚したのは2014(平成26)年11月。まるせきカフェからほど近い「姫子島神社」で式を挙げた。なんと、この神社で住民同士が結婚式を挙げるのは、実に36年振りのことだったという。
紫乃さんが、岡村島に来た頃のエピソードを交えつつ話してくれた。
「私たちがここに来てすぐのときは、『ここはもう終わる場所だから、あなたたちみたいな人は来ちゃいけない。未来のある人は帰りなさい』とまで言う方もいたんです。私たちのことが気の毒だって。でも、ここにカフェを作ったときに、『ここにまた新しいものができるとは思わなかった。ありがとう』とか『島が明るくなった』 とか喜んでくださる方がたくさんいて。それで、ずっとここで結婚式をやってないと聞いたことをきっかけに、それじゃあ私たちが式を挙げたら島の人たちもまた喜んでくれるんじゃないかと思って、「姫子島神社」で式を挙げようと決めました。そしたら、結婚式当日『花嫁衣裳で島を歩いてくれないか』ってお願いされて。急遽カフェで着付けして、神社まで歩きました。雨の日だったのにみんな見に来てくれて。『瀬戸の花嫁』も歌ってくださいました。」
『ここはもう終わる場所だから』という想い。これは多くの瀬戸内海の島々が直面している想いであり、日本中の過疎地域が同じ想いを持っているのではないか。こういう地域の想いを救うことができるのは、やはり彼らのような「外からやってきた人」なのだろう。そんな中でも、地方でのエコな生活を見直そうとか、地方への移住を促進する動きを最近よく見かける。しかし、日本全体の人口が減る中で日本各地が移住を促進しても、結局は同じパイの取り合いになってしまう。「地域活性化」という言葉があるが、それは単に名産品を開発したり観光客を呼んだり、移住者を増やしたりすることだけを指すわけではない。それ以上に、まずはその地域の人々が希望を持ち、『ここはまだ終わった場所じゃない』と強く思えることこそが、「活性化」なのではないだろうか。ふたりのエピソードを聞きながら、そんなことを感じた。
これからの関前諸島、そして今移住を考えている人たちへ
晶彦さんは「関前諸島を色んな人が訪れる場所にしたい」と語る。それだけのポテンシャルを実感しているからだ。確かに、関前諸島を「観光地」という意識で見ている人はほとんどいないだろう。そもそも、とびしま海道というものの存在をほとんどの人が知らない。広島側から橋を渡ってやってきて、終点に来たら愛媛県とはなかなか想像できないだろう。さらには、「愛媛から広島に渡るなら、松山からフェリーに乗るよりも、今治から岡村島へフェリーで渡り、その後とびしま海道を渡った方が安く行ける」という裏ワザまで存在するという。
確かに、しまなみ海道と比べたら圧倒的に知名度の低いとびしま海道である。だが、「サイクリングするなら断然こっちです」と紫乃さんが自信を持って語った。
「とびしま街道の橋は、しまなみと比べると低くて海がすぐ近くに見えるんです。防波堤が低くて、満潮の時は海に手が届きそうなくらい。だから、本当に海の上を走っているみたいに感じますよ。」
確かに、そこはしまなみと違うところだ。付け加えるなら、最初の呉から渡る橋以外は全部無料で走れる一般道というところがしまなみと圧倒的に違うところだろう。
ちなみに、「この島にこんなものがあったらいいなと思うものはありますか?」と聞いたところ、晶彦さんから「光ファイバーです!」との即答が返ってきた。
「これは必須ですね。」と力説する晶彦さん。
「光ファイバーなどの高速通信環境があれば、東京でやっていた仕事を地域に持ち込めるってことが多いんです。現状ISDNですから、一般のホームページを開くのも大変な環境です。」
紫乃さんも、1ギガのデータを送るために呉市のインターネットカフェまで車を走らせたことがあるそうだ。
「それから…」と晶彦さんが続けた。
「仕事の面だけでなくて、高速通信ができないと、防災情報さえきちんと入手できるか不安な状態ですからね。」
なるほど、確かに通信インフラさえ整えば、都会と地方の環境の差は埋まるだろう。それだけでなく、こうした島では「通信=防災手段」でもあるのだ。
最後に、今まさにどこかへの移住を考えている人たちへ、ふたりからのメッセージをもらった。
晶彦「人間関係に疲れたという理由で考えている人には、移住は難しいと思います。そういう人は多いかもしれませんけど・・・」
紫乃「そうですね。そういう理由で移住すると余計に悩みますから(笑)。都会以上に人とのかかわりは密接になるから、そういうことが楽しいと感じられる人じゃないと難しいんじゃないかな。」
晶彦「あと、田舎だからってスローライフなんてこと全然ないですから。仕事だけじゃなくて、こういうところだと晩ご飯をコンビニで買ってくるなんてこともできない。だから、なんでも自分でやらなきゃいけないんです。なんでもチャレンジしようと思う人。できなくてもやろうとする姿勢、これが大事なんだと思います。実践していたら、誰かが助けてくれるから」
紫乃「よく聞くのが、『こういうことやりたいと思っても誰も手伝ってくれない』『市が協力してくれない』『地域の人たちが理解してくれない』とかなんですけど。でもね、まずは自分たちがやろうとするから、周りも自然と手伝ってくれるんだと思うんですよね。もし移住したら、きっと今の暮らしより人間臭いつきあいになると思うし、それを楽しめるということが大事なんじゃないかな。そして、結局はその地域が好きっていうことが一番だと思います。」
移住を考える理由は、人それぞれだろう。ポジティブな理由もあれば、ネガティブな理由もあるかもしれない。だが、一旦移住したとなったら、まずはその地域に自らが貢献するための行動力を持たなければならないし、その行動を支える強い心を持たなくてはならない。晶彦さんのブログは、移住後毎日欠かさず更新されている。それを継続する強さも素晴らしいと思う。そう、移住そして定住に必要なのは、「生きる強さ」であり、その強さでもってその地域の人々の「希望」になることなのではないか。そしてふたりが同じ方向を見つめながら島で愛を育んだからこそ、そうした強さが生まれたのではないか・・・そんなことを感じた取材だった。