価値観を変えてもらった釜石の生産者との出会い
東京生まれの東京育ち。「震災前、東京より北は群馬くらいしか行ったことがありませんでした」と振り返る戸塚さんが釜石市とかかわりを持つようになったのは2012年のこと。7月から翌年1月まで、パソナのボランティア休職制度を使い、NPO法人ETIC.の右腕派遣制度を利用して、釜石市内の一般社団法人「三陸ひとつなぎ自然学校(さんつな)」でスタッフとして働いた経験が、社内ベンチャーの立ち上げにつながった。
「さんつな」は、長期の被災地ボランティア受け入れなどからスタートし、震災から4年半がたつ現在は、漁業体験のコーディネートや地元の個性あるガイドとの山歩きなど幅広い体験プログラムを提供しているほか、県内外の学生インターンの受入れなども活発に行っている。戸塚さんが在籍した当時はボランティアの受入れもまだ多い時期だった。
「常時10~20人は滞在するボランティアの活動先のコーディネートや、市内の橋野地区の調査に来たインターンの受入れなどを担当しました」と語る戸塚さん。
そこで出会ったのが、釜石の漁業、農業の担い手だった。
「一次産業にかかわる人たちとかかわりを持つのは初めての経験で、それまでは東京で育った自分からはいちばん遠い存在でした。東京での生活は人間が作り出したシステムや道具の中で生きているのが当たり前ですが、漁師さんや農家のお母さんたちは違います。人と人とが協力し合いながら自然を受け入れて、共存して生きようとしていました。東日本大震災の津波のような経験をしても、あきらめるのではなく、受け入れてそして共存しようとしている。そんな人たちと出会い、自分の価値観を変えてもらいました。」
そして、釜石を訪れた人たちが成長していく姿も印象的だった。
「釜石に来た直後は指示がないと動けなかった学生が主体的に行動できるようになっていく。そんな姿をたくさん見てきました」と、釜石での“人”や“価値観”との出会いを振り返ります。
釜石を離れ、模索する日々
釜石での半年間の濃密な経験だったが、やがて休職期間は終了、東京で復職し、人材派遣の営業という元の業務に戻った。被災地とのかかわり方を模索する日々の始まりだった。
「被災地に行きたいから現地の人を紹介してほしい」など、戸塚さんが釜石に半年間いたことを知る人から問い合わせがあった場合に、「さんつな」につないだり、知り合いを釜石に連れていったり、と自分にできることを続けたが、「受け入れてくれる相手に負担がかかっていないだろうか」「もっと自分の本業に近い部分で被災地のためにできることはないか」と、もやもやと悩むことも少なくなかった。
「継続的に被災地とかかわっていくためには、個人のボランティアベースの活動だけでなく、別のやり方もあるのではないか。」
東京に戻ってちょうど1年後の2014年夏、社内ベンチャー起業制度「東北未来戦略ファンド」を使って事業を起こしたいと会社に提案した。応援してくれる役員もいれば、収益性を心配する役員もいたが、意見を聞きながらブラッシュアップし、2015年4月1日、新会社「株式会社パソナ東北創生」の設立にこぎつけた。
ともに「出会えてよかった」と思える機会を提供したい
釜石での事業スタートには、社内の仲間も加わった。後輩で、震災の年に入社した石倉佳那子さんだ。彼女も社内のボランティア休職制度で釜石で活動し、起業の準備を進めていたところ、ちょうど市内甲子地区の「創作農家こすもす」で農業体験受け入れなどのサポートをしていたのだ。石倉さんの縁で、「パソナ東北創生」の事務所は「こすもす」の敷地一角に建っているプレハブを借りることに。今も、研修に訪れるパソナ社員とともに事務所らしく改造中だ。
2人の取り組みは始まってまだ半年。東京では企業や大学、NPOなどを回って研修ニーズをリサーチする一方、釜石を中心にした被災地域では受け入れてくれる団体へのヒアリングなどを重ね、新たな受け入れ団体の開拓も行っている。
これまでに、パソナの役員研修や新入社員研修のほか、早稲田大学の「大隈塾」の教員・学生の受入れを行った。
「釜石は自分がたくさんのことを気づかせてもらった場所なので、研修に来た人にとって学びの場所になる自信はあります。でも、それだけではなく、釜石の人たちにとっても学びの機会になるような事業にすることが目標です。ともに学び合い、出会えてよかった、と思える、そんな機会をつくっていきたいと思います。」
戸塚さんやパソナ東北創生のチャレンジは始まったばかりだ。