観光のまち・鳥羽
18,500人の人口に対して、年間430万人が訪れる観光のまち・三重県鳥羽市。その中心地には、鳥羽水族館、ミキモト真珠島、鳥羽城跡、フェリーターミナルなどがあります。ここから海岸線に沿って、パールロードを志摩市方面へ車で走ること30分。視界が突然ひらけ、太平洋の海原を見晴らす石鏡(いじか)町が現れます。石鏡町には、鳥羽市のもう一つの顔があります。それは「日本一海女が多いまち」。2017年時点で、市内には430人の海女が暮らしています。
日本一海女が多いまち
石鏡町と鳥羽市街地を結ぶ有料道路が開通したのは1973年のこと。それまでは、一日2便の巡航船が主要な交通手段でした。そのような背景もあって、石鏡町にはお祭り・神事をはじめ、古来より脈々と続く海女を中心とした漁村文化が今なお色濃く残っています。
主な産業は、漁業。男は船で漁に、女は海女として海へ潜り、貝や海藻を採取する。その暮らしぶりは、今なお変わりません。
海女文化を受け継ぐ決意
2015年、石鏡町は地域おこし協力隊の制度を活用した「海女後継者の受入れ」をはじめました。かつて石鏡町内だけで300人いた海女は、現在42人ほど。「60代はまだまだ若手」と言われるように、高齢化も進んでいました。
長年、町内出身者と嫁入りした女性だけで成り立たせてきた海女文化を、町外にひらく。全国でもめずらしい、画期的な取り組みは、海女文化を次世代へと繋ぐ決意の表れでした。
その中心人物が、石鏡町内会長の山本都美男(やまもととみお)さんです。「海女後継者の受け入れ」に踏み切ったキーパーソンでもあります。
石鏡町の漁師の家に生まれた山本さんは、名古屋での就職を経てUターン。20代で空手の流派を立ち上げ、師範代として空手家の育成に取り組んできた方でもあります。
海女になりたい都会の女性たち。カメラマン・大野愛子さん
2015年には、東京出身のカメラマン・大野愛子さんが地域おこし協力隊として着任。3年間の任期を終えた後は定住。海女とカメラマン、二足のわらじを履いています。
そんな大野さんの姿を見て、後に続く海女見習いが現れました。
広告代理店から海女へ・上田茉利子さん
千葉県出身の上田茉利子(うえだまりこ)さんです。海が大好きな上田さんは、早稲田大学在学中から沖縄にダイビングへ。広告代理店へ就職後は、三浦半島に通い磯遊びの日々。一度きりの人生だからこそ、大好きな海で生きていきたい。2018年7月に地域おこし協力隊として鳥羽市へ着任。海女のまち暮らし担当として石鏡町で活動を始めました。
鳥羽を選んだ理由
上田さんは、日本各地の「海女募集」を探していく中で鳥羽市のことを知り、地域おこし協力隊に応募しました。その理由を次のように話します。「長年都会に暮らして、広告代理店で働いてきたわたしがいきなり海女に転向するのは、ハードルが高い。わたし、思い切れなくて。サラリーマンをしながら海女という仕事も始められる協力隊というワンクッションが、ちょうどよかったんです」。
思い切れなかったと振り返る一方、鳥羽市への移住は、決意を確固たるものにしました。「一度やると決めたからにはとことんやる」と上田さん。移住後は、1日も早く海へ出たい一心から、住民へのアピールを欠かさずに行ってきました。ことあるごとに「海女になりたい」と話し、魚場近くで泳ぎ、とうとう小型船舶免許を取得。その甲斐もあってか、2019年2月に漁業権を取得。6月に海女デビューを果たしました。これは石鏡町の人たち、そして鳥羽市役所の職員たちも驚く、1年目のスピードデビューでした。
協力隊の活動について
鳥羽市では、地域おこし協力隊の3年間を次のように考えています。
まず1年目は、地域の魅力や現状を知るため地域行事に積極的に参加し、地域住民として認められるように努めます。2年目以降は、海女の漁獲物のブランド化や交流人口の増加、移住・定住促進に寄与する活動を展開していきます。
この3年間の活動を通じて、地域住民として認められる中で漁業権を取得し、協力隊活動以外での生活の一部として海女漁に従事することも可能になります。任期終了を迎える3年後には、自身の経験やスキルを活かした仕事にも携わりながら、海女として独立を目指すように考えています。
そのため任期中の活動としては、石鏡町の海女さんたちが、普段から食べている料理を一緒に作る「海女料理教室」などに取り組んでいきます。
企画を通じた石鏡町の人たちとの会話は、多くの気づきを与えてくれます。たとえば「なぜ海女は減少する」のでしょうか。理由の一つには、漁獲高の減少が挙げられます。けれども、海女さんからはこんな声も聞こえてきました。「子どもたちには継がせたくなかった。大学へ行って、企業に勤める安定した人生を送ってほしい」。
ハイヒールを履く海女
そうした中、上田さんが目指すのは新しい海女像“ハイヒールを履く海女”の構築。「海女として海に向き合いつつ、時にはヒールで営業したり…」。海女を軸とした、自由な働き方、生き方を模索しています。
ここには海がある
最後に、町内会長の山本さんから石鏡町の将来像を聞きました。
石鏡町の海女たちは、古くから「よく獲る、よく稼ぐ、よく働く」大漁の腕利きとして知られてきました。そして、その腕を買われて、国内外へ出稼ぎに赴きました。初島や伊豆、はたまた韓国でのテングサ漁、礼文島でのウニ漁など。どうやら石鏡の海は、腕利きの海女を養成する最高の環境にあったようです。
10年後の石鏡町については「人口が200人まで半減し、空き家が100軒に上る」と予測した上で、山本さんは「チャンスじゃないか」と続けます。一体どういうことでしょうか?
海女の担い手は減少していく一方で、石鏡町にはこの先も豊かな海があります。もし、あなたが海女を目指すのならば。10年後には、ひょっとしたら今とは全く違う海女の姿が待ち構えているのかもしれません。
まずは上田さん、山本さんをはじめ、石鏡町で暮らす人々の生活を感じながら、ここでできることを、考えてみませんか?
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