「おもてなし」と「ラボ」
「おもてなしラボ」という名前はとてもわかりやすい。
その名前の通り、2つの機能に集約される。
「おもてなし」の場であり、「ラボ」としての場であるということだ。
「おもてなし」という言葉は、インバウンド旅客誘致の文脈で最近よく聞かれるようになった。
「最初は少し抵抗がありました。でも、外国人の方からすると分かりやすいでしょうから、あえて『おもてなし』という言葉を使うことに」 と鳥海さん。
実を言うと、当初の「おもてなしラボ」は、ゲストハウスとしてスタートする考えだった。
成田国際空港から近いことが大きな利点と考え、外国人旅客をターゲットにしようと考えたのだ。
しかし、建物の構造上の制限から、ゲストハウスのみの営業はできないことが判明する。
一方で、「ラボ」というアイデアは生き続けた。
いろんな出会いから化学反応が起こって、新しいものが生まれる場を作りたい。
それは何もゲストハウスに限ったことではない。
「仕事であれ、宿泊であれ、とにかく『シェア』することをやりたかったので」
そこで、コワーキングスペース、レンタルスペースを組み合わせた現在の形態にたどり着いた。
建物はかつての家具屋
シンプルだが一つの芯の通った「おもてなしラボ」。
では、その全容を見ていこう。
「おもてなしラボ」があるのは、千葉県佐倉市のへそに当たる新町地区。
外国風にいえば「オールドタウン」といった情緒ある町並みだ。
現在の新町地区は、100年を超える老舗が残る一方、深刻な空き家問題も抱えている。
「おもてなしラボ」はそんな空き家のひとつを活用して生まれた。
表から建物を見ただけでは分からないが、その奥行きは35メートルと非常に長い。
というのも、むかし、城下町では家の間口の広さで租税を決めていた。
必然的に、間口が狭くて、奥行きの深い構造の家が多く生まれた。
その名残が今の区画にも残っているという。
奥に長い二階建ての内部構造はちょっと複雑だ。
玄関を入ると間もなく階段があり、半地下、一階、中二階、二階の4層にスペースが分かれる。
複雑な構造の理由は、建物の歴史を知れば、ちょっと腑に落ちる。
「おもてなしラボ」開業前の10年間、この建物は佐倉市の助成を受けたNPO団体が運営する「佐倉歴史生活資料館」だった。
さらにその前に遡ると、有名な家具屋の店舗兼工房だったという。
そう思って館内を見ると面白い。
たとえば、玄関を入ってすぐ左脇の階段を下った半地下スペース。
リノベーション以前は、表から見えないように塞がっていたそうだ。
考えてみると、そこはかつての家具屋の作業場やストック置き場だったのかもしれない。
それから、中二階を設けた多層構造は、より多くの家具を陳列することを考えると合理的だ。
活用の仕方を見てみよう。
一階の奥の空間は「レンタルスペース」。
イベントやセミナー、パーティーに活用される。
音楽イベントなども月に何度か開催される。
またこの奥には温泉のようないい感じの浴室がある。
常時稼働とはいかないが、イベントの際に足湯などに利用できる。
二階の裏側のスペースは「コワーキングスペース」。
ゲストは1日1000円、レジデントになれば月額1万5000円で設備をフル活用できる。
デスクワークだけでなく、ものづくりの空間としても利用できる。
また、玄関を入ったところのスペースで展示販売も可能だそうだ。
そして、中二階を経て、二階の表通り側が、2015(平成27)年3月オープン予定のゲストハウス。
ドミトリーにはベッドが6床。個室も1部屋備える。
客室の壁には佐倉の昔の写真が貼ってあり、廊下には昔の大きな写真機も展示してある。
宿泊者が佐倉のまちに目を向けてくれるきっかけになりそうだ。
個室には格子のついた大きな窓があって、そこから通りの様子が見下ろせる。
その眺めは、旅人にとってちょっと嬉しい楽しみだろう。
半地下のエリアはフリースペースになっていて、ソファやハンモック、本棚、コーヒーメーカーなどがあるくつろぎの場となっている。
シェア=ブリコラージュ
それから、建物の表にはワゴン車がちょうど一台入るくらいのスペースがある。
ここに、日替わりでケータリングカーのカフェが入るのがいいアクセントになっている。
ランチタイムは「おもてなしカフェ」に早変わりだ。
でも、本当のことを言うと「結果としてそうなったんです。」
鳥海さんは苦笑しながら言う。
新町地区には飲食店が少なく、鳥海さんとしても食事面がひとつのネックと開業前から考えていた。
ゲストハウスといえば、カフェスペースが必要とも思っていた。
しかし、空き家を活用しているため、建物の構造上、飲食業を営むことができない。
それを逆手にとって、ケータリングカーのカフェを日替わりで入れることにしたのだ。
フランス語には「ブリコラージュ」という言葉がある。
「手元にあるもので工夫して作っていく」というような概念だ。
(とある都内のカフェのオーナーから教えていただいた。)
「おもてなしラボ」の作り方も、まさにブリコラージュの原理によるところが大きい。
「とにかく『シェア』することをしたかった」という鳥海さんの思いは、このブリコラージュと同じことを意味していると思う。
さて、「おもてなしラボ」の概要はこのあたりにして、ここからは鳥海さんの歩みを振り返りつつ、その思いを伝えたい。
「新顔」の鳥海さん
鳥海さんは千葉県市川市生まれ。
3歳のときに佐倉市内の団地に引っ越して以来、一時は離れたこともあったが、ずっとこのまちを地元として過ごしてきた。
「おもてなしラボ」を開業した新町地区も、地元の祭りやイベントで馴染みの場所だった。
ただ、「馴染みがある」のと「そこで仕事をする」のでは話が別。
江戸時代から引き継がれた伝統があり、創業から100年を超える老舗も少なくない新町地区だ。
成熟したコミュニティというのは、なかなか余所からの仲間入りがしづらい。
「新顔」の鳥海さんにとっては、チャレンジングな環境だった。
しかし、そうと分かって、あえて挑んだ。
もちろん、やらなければやらないで、苦労などしない。
でも、鳥海さんは空き家との巡り合わせを受け入れた。
「仕事している人は、意外と市内の他のエリアから通ってくる人が多い」
という現実も後押しした。
おそらく、それ以上に後押ししたのは、本人の口からはあまり語られないけれど、鳥海さんが高校を卒業してから佐倉を離れていた8年間にちがいない。
南半球の異文化の中で
鳥海さんはニュージーランドのクライストチャーチに渡った。
高校卒業後、留学の手続きを自力ですべて行い、英語習得を目指して。
語学学校から始まり、大学ではコンピュータ関係の分野を専攻。
4年間の学位取得にとどまらず、修士課程も修了した。
英語習得はもちろん、南半球の異文化の中で経験を十分に積んでから帰国の途についた。
クライストチャーチといえばニュージーランドの南島。
まだ記憶に新しい大地震のあった場所だ。
日本ではその2ヶ月後に東日本大震災が起こった。
当時、鳥海さんはすでに帰国して国内企業に就職していたが、テレビに映るクライストチャーチの様子に心を痛めた。
学生時代に毎日通った場所が、被災地の中心だったのだから。
震災のあと、鳥海さんは現地を再訪した。
観光客で賑わっていたはずの場所が、被災したまま、復興も進まず、景色が一変していたという。
ニュージーランド留学後、企業への就職を経て独立起業。
地元の情報誌の製作に関わりながら、佐倉の町おこしに加わる中で、「おもてなしラボ」に生まれ変わる前のあの空き家が取り壊しになるかもしれないという話を聞いた。
「どうせ壊されるなら、僕がやろうと思い立って…」
敷居の高い新町地区での開業には、普通ならおよび腰になる。
それでも踏み出したのは、ニュージーランドでの8年間を経て今に至るすべての経験と思いがあったからにほかならない。
好条件を備えた土地
「おもてなしラボ」のある佐倉は、東京から電車で1時間ほどの通勤圏内。
田園風景と森林、水辺の豊富さを備えた田舎でもある。
つまり「東京に最も近い田舎」ということだ。
さらに、成田国際空港という日本の空の玄関から電車で10分。
東京に近いだけでなく、「海外にも近い田舎」と言える。
これほどの好条件を備えた土地はなかなかない。
ローカルシフトを考える人にとっては、仕事も生活もしやすい理想的な環境といえる。
2015(平成27)年1月31日、「おもてなしラボ」で佐倉の新しいまちづくりを考える「佐倉ミライ会議」の第2回がローカルシフトとのコラボレーションで開催された。
そこに集まった参加者は、佐倉在住の人が半分、東京や関東圏から参加した人が半分。
午後2時に始まって、議論は夜まで沸騰した。
「この場所にこんなに外から人が集まることは今までなかった、画期的なことだ」と賞賛の声が上がる一方で、「新しく始めるのは自由、でも、礼儀をきちんと」と地元の先輩方からはお叱りも受けた。
こうした意見の「シェア」こそ、「おもてなしラボ」の役割であり、鳥海さんの目指すところだ。
実験はすでに始まっている。
3月オープン予定のゲストハウスが動き出せば、もっと面白い変化が起こりそうだ。
佐倉のこれからを楽しみに、私自身も足を運んで繋がっていきたい。