記事検索
HOME > はたらく > リモートワーク >
2023年10月20日 ココロココ編集部

クリエイターに突如訪れた、移住のきっかけ。仕事と住まいの考え方とは(名寄市 前編)

2021年に名寄市に移住し、グラフィックデザイナーとして幅広い分野の仕事をリモートで対応しているデザイナーの満吉昇平さん。鹿児島出身の満吉さんにとって、名寄の‟雪がある暮らし”はとても新鮮な体験でした。移住のきっかけともなり、冬が一番好きな季節だといいます。

満吉さんは、移住するまでは夫婦でマレーシアに暮らしていたそう。なぜ、名寄市に移住を決めたのでしょうか。そして気になるのは、この最北の地で、クリエイティブな仕事は本当に成り立つのか、成り立たせるためにどんな工夫が必要なのか。

今回は名寄市民文化センター「エンレイホール」でインタビューを行い、仕事に関するアレコレ、北国ならではの暮らしの楽しみ、苦労話など、移住に関する気になるポイントを伺いました。

理想を求めて気づいた、グラフィックデザイナーの心地よさ

現在はデザイナーとして、PCでほぼすべての仕事をこなしているという満吉さんですが、もともとは映像関係の仕事をしていたそう。東京・世田谷にある東宝撮影所で撮影を行う会社に就職し、国民的映画の数々にも関わっていたのだとか。

「東宝撮影所で働いていた時には、クレーン撮影をしたり、レールを敷いて並走して撮ったり、雨を降らしたりスモークを焚いたり、特殊撮影という仕事をしていたのですが、僕らが撮ったシーンは、ほんの数カットしか作品に入ってこないんです。その事実に改めて気づいたときに、『ちょっと思い描いていた仕事とは違うな』と思って、いわゆる制作会社に進んでいったんです。」

「制作会社に移ってからは、CMノウハウや映像ノウハウ、デザインであったりを幅広く学び取っていって、イラストレーターやデザイナーの友達もたくさんできたので、彼等と関わっていくうちに、彼等の色もついていって、グラデーションしながら、シフトチェンジしていきました。」

自分が感じる違和感に、しっかりと向き合ってきたことが今に繋がっている

自分が心地よい方向へと、身軽に動いていくのが満吉流なのでしょう。その後は、憧れていた海外生活を目指して行動に移しました。

「幼いころ海外に行った記憶から、『海外いいな、カッコいいな、住みたいな』っていう気持ちがどこかにあったんですよね。特にニューヨークには3ヵ月行って、そこで職を探したりもしたんですが、結局不動産屋しか受からず。一瞬迷ったのですが、『ん?これがやりたかった事か?』って考え直して、結局日本に戻って映像編集の仕事をしたんですね。」

海外生活を一旦諦めて、映像編集の仕事に就いた満吉さんでしたが、やはり自身の感じる違和感には抗えなかったとのこと。

「映像編集って、素材をもらわないといけないんです。そのあとも、仮編集までは自分でできるのですが、最終のポストプロダクションという工程は業者にお願いしないとできなくて。自分は中継ぎの役目だったんですね。これがどうしても、なんか違うと思ってしまって。」

漠然としていた「理想」を、違和感をつぶしていくことで明確にしていった満吉さん。寄り道しながらも、行き着いたのが今の職業、グラフィックデザイナーという仕事でした。

満吉さんが手掛けた、名寄市のPRに関わるグラフィックデザイン

「1から10までクリエイティブに携われて、1枚の紙で表現ができるというところが、すごくマッチしているなと思ったんです。PCで作業できて、複数の場所に拠点を移してきた僕にとっては、場所を選ばずに仕事ができるということは大きかったです。僕の場合、仕事に生活を左右されるのではなく、生活がまず上にあっての仕事なので、この仕事のスタイルには僕には合ってたのかもしれません。」

マレーシアから名寄に移住したのは、コロナ禍の偶然

グラフィックデザイナーにシフトして、満吉さんは東京、ロンドン、マレーシアのクアラルンプールと拠点を移しながら、現地と日本の仕事の両方をリモートで請け負いながら、生業としてきました。それからなぜ、名寄に住むという決断に至ったのでしょうか。

「マレーシアから名寄へ移住するきっかけとなったのは、実はコロナだったんです。母が体調を崩したので、一度実家のある鹿児島に戻っていた時期がありました。無事良くなったので、今度は妻の実家の名寄に寄ってからマレーシアに帰ろうとしていたのですが、戻れなくなっちゃったんです。何度帰国を申請しても、リジェクト(拒否)されちゃって…。マレーシアで家も借りて、働いて給料ももらっているのに…。」

帰国できない状況はその後2、3か月ほど続き、その間、満吉さんは手持ちのPCひとつで仕事をこなすことに。時には奥様の実家のちゃぶ台で仕事をし、時には名寄市の図書館に出かけてPCを広げ、やがて冬が訪れ、雪道を歩き、窓からしんしんと降る雪を眺め。そんな日々を過ごすうちに、「ここでも暮らせるんじゃないか」という漠然な思いが芽生えたといいます。

「もともと、北海道のイメージが良かったんですよね。北欧的な感覚で、本州とは木も違うし、街並みも違うし、空も広い。それで妻に『俺はここに住んでもいいけどね』って言ったのですが、『いや、私は鹿児島のほうがいい』ってリジェクトされて(笑)。」

木々も空も、本州とは違った雰囲気を感じられる

「二人で話し合って、まずは名寄に住んでみて、ダメだったら鹿児島にしようと暮らし始めたのですが、ちゃんと名寄での暮らしに向き合って過ごしていたら、『すごくいいな』と感じているところです。」

家を探すなら、地元に入ってみることが大事

マレーシアの住居を引き払い、名寄で暮らすことを決めた満吉さん夫婦。最初に行ったのは「家探し」でした。名寄では新しい戸建て住宅が並ぶ光景も見られますが、満吉さんは敢えて「民家・賃貸」にこだわりました。

「住まいは正直、どこでも良かったのですが、僕は新しいものよりもむしろ古いほうが‟あたたかさ”があって好きだし、飽き性だから、所有してもな…って思っていました。空いている家に賃貸で入ろうと、地元の不動産屋さんに探してもらいました。名寄って意外とあるんですよ、古くてかわいい家が。」

冬の山からみる、コンパクトな名寄市の全景

「地元の不動産屋さんに行ったら、最初は『借りるの?」とびっくりされたのですが、いいなって思った物件を決めたら、不動産屋さんがその家を買い取って、僕らに貸してくれたんです。家賃も格安で。1階が4部屋、2階が3部屋、1階の壁を取り払って、今はひとつの部屋にして使っていますが、広すぎて2階はまだ使っていなくて。これで家賃4万円くらいなんです。」

良い不動産屋さんに出会い、家探しにはさほど苦労をしなかったという満吉さん。実はこの家賃は名寄でも破格の安さで、ネット掲載の戸建て賃貸は6~7万が相場。アパートでも同じくらいの家賃なので、田舎暮らしのメリットを堪能するには、地元の不動産屋さんを訪ねてみるのもいいかも知れません。

「『地元に入ってみる』って大事ですね。ニューヨークで就職活動した時にも、人に聞いてみると『ここで募集してたよ』とか、『チラシにのってたよ』とか、細かい情報を教えてくれて、それがすごく有り難かったです。ネットに載っていない情報って実はかなり多いんです。名寄は田舎なので、余計そうだと思います。目が肥えている都会のクリエイターさんなら、このへんの家を見て、『あ、いいな』って思う人は多いと思いますよ。」

現実問題としては、戸建ては雪かきの負担が大きくなるため「雪国に慣れていない移住者に戸建てはおすすめできない」という事情があるそうですが、満吉さん夫妻は奥さんが地元民ということで、その心配は不要でした。ネットの情報を過信せず、実際に現地に足を運び、五感を駆使して自分に合う家を探す。それが家探しの秘訣のようです。

記事の後編はこちらから
>移住してから見えてきた、仕事とプライベートで本当に必要だった事…

<募集中>名寄市移住体験クリエイティブキャンプ

名寄市への移住と、圧巻の自然環境を体験できる、クリエイティブキャンプが開催されます。お申込みはこちら

取材先

満吉昇平さん

鹿児島県出身。マレーシアなどの海外で生活したのち、コロナがきっかけで2021年に奥様の実家がある名寄市に移住。グラフィックデザイナーとして幅広い分野の仕事をリモートで請け負っている、フリーランスデザイナー。

ココロココ編集部
記事一覧へ
私が紹介しました

ココロココ編集部

ココロココ編集部ココロココでは、「地方と都市をつなぐ・つたえる」をコンセプトに、移住や交流のきっかけとなるコミュニティや体験、実際に移住して活躍されている方などをご紹介しています! 移住・交流を考える「ローカルシフト」イベントも定期的に開催。 目指すのは、「モノとおカネの交換」ではなく、「ココロとココロの交換」により、豊かな関係性を増やしていくこと。 東京の編集部ではありますが、常に「ローカル」を考えています。

人と風土の
物語を編む

 「風土」という言葉には、地形などの自然環境と、 文化・風習などの社会環境の両方が含まれます。 人々はその風土に根ざした生活を営み、 それぞれの地域に独自の文化や歴史を刻んでいます。

 過疎が進む中で、すべての風土を守り、 残していくことは不可能であり 時とともに消えていく風土もあるでしょう。 その一方で、外から移住してその土地に根付き、 風土を受け継ぎ、新しくつくっていく動きもあります。

人と風土の物語を編む