地元いわきと東北の食材をふんだんに使った、極上のフランス料理
いわき駅から車で10分ほど、国道49号近くの高台にひっそりと佇んでいる一軒家レストラン「Hagi」。洒落たたずまいのエントランスをぐぐれば、萩さんが笑顔で迎えてくれ、西洋アンティークが配されたホールに通される。そこにはテーブルが一組だけ、きれいに整えられて、ゲストを待っている。
この店のメニューは3種類、1万円、1万5千円、2万円のコース料理のみだ。好みを伝えることはできるが、それ以上の選択肢は一切無い。何が出るかはほぼ完全に、シェフのお任せになるのである。
食事を終えるまでの時間はおよそ2時間から3時間。レストランには最初から最後まで、ゆったりとした時間が流れている。
食事のスタートは、いつも野菜の説明から始まる
食事が始まる前、萩さんはゲストの前に野菜を山盛りにしたざるを置いて、ひとつひとつの野菜の名前、産地、おすすめの使い方などを紹介してくれる。
その中には見たことも無いような在来野菜や西洋野菜も交じっているため、見ているだけでも面白い。
これらのユニークな野菜も、ほとんどが市内で生産されているとのこと。
にこやかに説明してくれる語り口から、萩さんが地元の生産者との方との関係性を大事にしていることがよくわかる。
ドリンクには各種ワインもそろっているが、自家製のジュースから作るペリエも非常に美味だ。
地元の食材を使った料理は、どれも驚きの連続
最初に、「メニューは旬と毎日の収穫物で変わる」という大前提があるのだが、この日の料理の一部を紹介すると、下記の通りだった。
A【福島】いわき産小麦の自家製のパン
B【福島】会津産馬肉といわき・坂本農園の西洋野菜を使ったサラダ
C【福島】いわき・日本きじ牧場の雉(きじ)肉とファーム白石の聖護院大根を使ったスープ
D【福島】川俣シャモでトリュフとフォアグラを包んだガランティーヌとシャモ肉のソテー
E【宮城・福島】石巻の阿部さんの牡蠣の下にいわき・白石ファームの寒中ブロッコリーのピューレと、いわき・加茂農産の「二番なめこ」を敷いてグリルしたもの
F【岩手】柿木畜産の短角和牛の熟成肉ステーキにいわきの在来野菜「西洋わさび」とビーツのソースを添えたもの
G【福島】いわき・生木葉ファームのピーナッツのキャラメリゼと市内産いちごを使ったデザート
そのほかにも、幾つかの小皿やカフェもあったが、なにしろメニュー表が無いので、ひとつひとつのメニュー名というものも無い。
日々メニューは変わっていくので詳細には触れないが、写真を見ただけでも、料理にかけられたたいへんな手間と愛情が伝わることだろう。
雰囲気、サービス、味。そのどれをとっても一流なのだが、これが、いわきの住宅地の一角で味わえるのだから驚いてしまう。
1名あたり平均1万5千円という客単価を聞いて、最初は「少し高いのでないか?」と思っていたが、この料理を堪能すれば「むしろ安すぎではないか?」という意識に変わる。
実際、食べた後に次回の予約を入れていく地元のリピーター客も多く、今ではなかなか予約がとれない状態となっている。
料理をいただいた後、シェフからお話を聞くことができた。
24歳でこの場所に店を構え、フランス仕込みの本格派料理で人気店に
萩さんはこの地の生まれ。高校時代までをいわきで過ごし、「いつか地元にレストランを開きたい」という夢を抱いて東京の名門、エコール辻(辻調理師専門学校)に進み、卒業後には渡仏。本場の味を舌に叩き込み、24歳の時にいわきに戻って、「ベルクール」というレストランを開いた。
24歳の若さで自分の店を構え、フランス仕込みの本格派フレンチを提供していた萩さん。もちろん、味は確かなものであったから、店はすぐに軌道に乗り繁盛した。しかし、そのどこかで、「寂しさ」も感じていたのだという。
「その時はその時なりに、最高の素材を使って、できることを一生懸命やっていました。流通も発達していたし、僕の料理を勉強した環境も、誰よりもフランスのものを手に入れることが素晴らしい、という雰囲気でしたから、美味しいものは出せていたと思います。でも、食材をひとりで市場から仕入れて作っていると、調理していても、『ひとりで作っている』という感覚なんです。誰が食材を作っているかを知らずに調理していることに、少し空しさを感じていました。」
不景気で世の中を包む閉塞感。そこに、震災がとどめを刺した
順風満帆に立ち上がった若きシェフ、萩春朋のレストラン。しかし数年後、試練が訪れた。
「2008(平成20)年にリーマン・ショックがあって以来、この街にも閉塞感が漂ってきました。平の飲食街にはシャッターを閉めたままの店が増えいきましたし、客足も遠のき、自分もいつまで持つのかと、先の見えない感じになっていたんですね。そんな時に震災が起こって、沢山の方が亡くなって、お客様も来なくなって。」
震災後、萩さんの店には閑古鳥が鳴いた。3か月ほどの間は、だれも予約の無い日や、あっても1日に1組という日が続いた。
「ああ、いよいよ閉店だな」と、萩さんは半ば覚悟を決めていたという。
「途方に暮れていたそのころ、地元の農家の方から、『野菜が売れなくて困っている』という話を聞いたんです。その時、『ならいっそのこと、うちでその野菜を使って、1日1組限定にしてしまって、店の最後をきれいに終わろうかな』と思ったんです。それが今のスタイルになったきっかけですね。」
まったくの偶然だった、「生木葉ファーム」の佐藤さんとの出会い
こうして1日1組のスタイルを決意してから、萩さんの心は地元の生産者に向いた。
そんな折に、ひとつの大きな出会いがあった。
「『ineの会』と出会ったのは、実はうちの娘がきっかけなんです。学校の授業で青虫(モンシロチョウの幼虫)を観察するっていう授業があって、私も一緒に探しまわったんですけれど、このへんの畑を探しても全然いないんですよ。その時、たまたま生木葉さんのところを通りがかったから、『青虫はいますか?』って聞いてみたら、ちょうどみんなで青虫を取る作業をしていたんですね。」
萩さんはこの時にはまだ、無農薬・有機栽培ということを強く意識することは無かったという。
「佐藤さんの凄さを知ったのはその後でした。娘の学校はひとつの学年に80人ぐらいいるんですが、青虫を持って来れたのはうちの娘だけだったんです。その時に、『ああ、ほとんどの畑で農薬を使っているんだな』ということを知って、そこから、佐藤さんとのお付き合いが始まりました。野菜を食べてみたらすごく美味しかったですから、早速、レストランのメニューにも使うようになりました。」
「佐藤さんに会うまで、実は、地元の農家の方のところに行くのが怖かったんですよ。なんだか怒られて、追い返されちゃうんじゃないかと思って。実際にそういう経験もしましたしね。でも、なぜ追い返されたのかを考えてみれば、その時の僕は、『ぼかし』とか『畝(うね)』とか、そんな言葉さえも分からなかったんです。それは追い返しますよね。佐藤さんはそんな僕にも、色々と優しく教えてくださいました。」
それから萩さんは、農業の専門書を読みあさるようにして、「農家の言葉」を覚えていった。佐藤さんの農場にも出かけて、自ら農作業を手伝うこともあった。
「1年ぐらい経ってからでしょうか。急に、佐藤さんが言っていることが、“聞こえる”ようになったんですよ。そんな経緯で、佐藤さんを通じて、北瀬さん(『ineの会』事務局)や白石さん(『ファーム白石』代表)にも会うことができたんです。」
「ineの会」の仲間につながって、価値観が変わって、人の輪が広がった
「佐藤さんと白石さん、このお二人に出会ったことは大きかったですね。お二人には、野菜が自然栽培や有機栽培であった場合にどんな味になるのか、ということを教えてもらいました。」
「普通の感覚だと、有機無農薬栽培の野菜のほうが“濃い”味になると思いますよね。でも、違うんですよ。化学肥料で作ったほうが濃いんです。鉱物が多いのでちょっと苦くて、濃くて、分かりやすい味なんです。
でも、白石さんの自然栽培の野菜なんかは、彼のイメージとはちょっと違うんですが(笑)、スッキリとした味なんです。何と言うか、昔食べた野菜の味なんですね。おばあちゃんが『昔の味がする』と言っているあれです。」
「ineの会」に出会い、本物の野菜の味を知ってから、会の枠を超えて出会いはさらに広がっていった。
白石さんの紹介で『東北食べる通信』の編集長と知り合い、そこから柿木畜産(短角和牛)や牡蠣の阿部さんなど、県外の生産者にもつながっていった。一方では、地元で西洋野菜を作る坂本さんや、伝統野菜を作るおばあちゃん、日本きじ牧場の方々などともつながった。今では「人と人のつながり」だけでほとんどの食材が揃えられるようになったという。
「今は調理をしているとすごく楽しいんです。なめこを調理していれば加茂さんのあの顔が思い浮かぶし、野菜をいじっていれば白石さんが浮かんできます。その食材にも、それを作った人の顔が結びついているんです。これって、とても幸せなことだと思うんですね。」
震災以前、高級な食材や珍しい野菜を全国から集めて、孤独に調理をしていた萩さん。しかし今は、たくさんの仲間の笑顔に囲まれている。
「仲間と一緒に調理している気分です」という言葉に、今の萩さんの幸せな気持ちが表れていた。
朝は収穫の時間。お客さんの来店に合わせて仕込みを進める
萩さんの朝は早い。お客さんがランチに訪れるのならば、早朝から提携している農家に自ら足を運び、収穫し、厨房に戻って下ごしらえをする。
お客さんに見せるための野菜も整えながら、パンの生地を捏ねながら、お皿に添える説明の紙を切りながら、丁寧に丁寧に、“今日のお客さん”のための準備を進める。
「冷凍のコロッケって、何も悪いものは使っていないと思うんですが、そんなに美味しくは感じないですよね。それってなぜかと言えば、収穫から製品になるまで、だれひとり、食べる人に向かって作っていないからなんです。でも、お母さんが作ってくれた料理っていうのは、本当に家族のためを思って作っているから、上手じゃなくても美味しいんです。『気持ちが入る』という事があるかどうか、僕には分からないんですが、『食べる相手に向かって料理を作る』ということが大事なんです。」
こうして萩さんお店は、今や2か月先まで予約が埋まる人気店となった。
それでも、「1日1組」のペースは崩すことなく、当面は続けていきたいそうだ。
加工することで、野菜の賞味期限は大きく伸びる
萩さんは今、料理と同じくらいに「加工」にも夢中になっている。
加工とはすなわち、ドレッシングやコンフィチュール(ジャム)を作るということだが、萩さんの厨房の奥には小さな食品工場のように、充填のための機材が並んでいる。
「震災後には全く野菜が売れなかった時期がありましたから、特に佐藤さんや白石さんのようにJA(農協)に卸していなかった農家ではどうしようもなくて、作った野菜を“廃棄”して畑に戻すという状態でした。そういう姿を見ていて、野菜の美味しさをずっと残していけるような商品を作れないかな、と思っていて。試しに加工品を作って、農家の方にプレゼントをしたのがきっかけです。その頃はみなさん、野菜も、新鮮なものを生で食べてもらうのが一番と思っていて、誰も加工品は想像していなかったと思うんですけれど、すごく喜んでくれて、商品化することになりました。」
こうして萩さんのもうひとつの顔、ジャム工場とドレッシング工場の“工場長”としての活動が始まった。
コンフィチュールはレストランの店頭や生木葉ファームの売店で販売されている。
ドレッシングは、白石さん(https://www.facebook.com/shiraishifarm/?pnref=lhc)に直接連絡すれば、全国発送にも対応してくれる。
メニューを出すときには生産者も一緒に
萩さんのレストランでは、メニューを提供する直前に、メニューと一緒に使っている素材を紹介する紙が置かれる。ありそうで無いこの仕組みは、どのように始まったものなのだろうか。
「そもそも、メニューだけ書いてあっても面白くないじゃないですか。それよりも、生産者がどうやって作っているとか、どんな方だとか、食材について重点を置いて食べていただくほうが、楽しいと思うんです。そうすれば食べた後も、これを持ち帰ってもらって、生産者とつながってもらうこともできますから。どうして始めたかと聞かれてしまうと、実は僕も震災からしばらくは混乱していて覚えてないんですが、そういう思いで、この紙を置くスタイルをやってきたと思うんです。『ひとつのテーブルにいろんな人の顔がある』っていうのが、一番面白いなと思って。」
このレストランにはメニューが無い。でも、芯の通った「こだわり」がある。
「こだわりは、『旬に逆らわない』ことですね。僕は無農薬や無化学にこだわっているんじゃなくて、旬のものを、生産者がちゃんとした思いを持って作っているものがあれば、あとは僕が、オーケストラのようにまとめればいいと思っているんです。そして、地元の人もここで食べて、いわきの食材の美味しさを再認識してくれるような料理を作れたらいいな、って思っています。」
震災後を経たことで失ったものも多かったが、それ以上の新しい発見、仲間との出会いを経て、再起を果たした萩さん。
「これからも地元の生産者の皆さんと一緒に、いわきの良さを伝え続けたい」と笑顔で話してくれた。