東京に生まれ、美術史を学んで音楽の道へ
東京都武蔵野市で生まれ育ち、「マンガが好きなふつうの少年」だったという石渡のりおさん。中学生になると音楽に興味を持ち、学校から帰ると棚からレコードを引き出して、音楽鑑賞を楽しんでいたとか。
「自分のアートの原点は、レコードジャケットだと思うんです。表紙を見てそこから想像をするのが、『ひとつの絵から何かをふくらます』ということの原点だったんですね。そのうちレコードとかCDを集めだすと、表紙だけを見て買ういわゆる『ジャケ買い』をしていました。」
そのうちに絵そのものにも興味を持つように。進学先に選んだのは、東京都町田市にある和光大学の「人文学部芸術学科」でした。
「大学では芸術論を専攻しました。でも、芸術学部じゃなかったので、あまり本格的なことまではやれなかったですね。それよりも、バンドをやったり、音楽イベントを企画した経験が今に影響していますね。」
集客のためにチラシを描き、コンビニでコピーして配る。初めての“画家”体験でした。
「音楽も極端なものになると、アートの領域に踏み込んでくるんですよ。その時に、初めてアートを意識するようになったのかな、と思います。ただ、それはまだ自分にとってすごい遠いものだったんですね。どうやって表現すればいいかわからなかったし、仕事になるなんて考えていなかったです。」
大学卒業後は、音楽で知り合った人の会社を手伝いながら、音楽イベントの制作、ミュージシャンのマネジメントを仕事にして、十数年の社会人生活を送りました。
交通事故に遭って、生き方を自問自答
「音楽の仕事の途中でフリーになった時期があったんですけれど、その時、交通事故に遭って腰の骨を折り動けなくなってしまって。その時に初めて、『このまま動けなくなったらどうしようか。自分は一体何をしたいんだろう』という問いに向き合ったんです。その時自分の中から出てきたのが、絵を描くか、文章を書くかということでした。自分の中でも、『それをやりたかったのか!』って、すごくびっくりしました。」
しかしこの不幸は、思わぬ幸福を運んできてくれました。
「事故をした時に付き合っていた彼女が、いま一緒にアート制作をしている、妻でパートナーのちふみなんです。退院しても当分は働けない身体だったのでちふみの家に住まわせてもらって助けてもらっていました。」
そして事故の翌年にふたりは結婚。その後も10年近く共働きで資金を貯めて、のりおさんが38歳の時、サラリーマンを辞めることを決意しました。
震災をきっかけに会社員から“引退”
「当時、二人とも平日はほかの仕事をしながら、週末に作品を作るという生活をしていたんですけれど、そんな時に、東日本大震災が起きたんです。」 被災地の被害や原発事故を見て、そしてそんな中で東京で暮らす人々を見て、自らの生活や東京に暮らしていることに、あての無いモヤモヤや違和感を感じたのりおさん。出た結論は、「自分の生活自体を納得のいくものにしよう」ということでした。
「週末だけの創作活動を、本格的にやりながら、自分の責任の範囲内で取捨選択をして生きていけば、なんとかなるんじゃないかな、と思ったんです。世の中が壊れてしまうこともあるのだから、やりたいようにやるのも選択肢のひとつじゃないかと。それで、会社を辞めました。」
世界に旅立ち、「生活の基準」を考える
二人で同時に会社を辞めた石渡夫妻。最初に実行したのは海外への長期旅行でした。
「世界中にはそれぞれの問題を抱えながらちゃんと“生きている”人がいるわけです。その人たちがどうやって生きているのかを、自分の目で見たかったんです。それで、スペイン、イタリア、ザンビア、エジプト、モロッコを約1年間旅しながら、その環境で作品を作って、現地の人のリアクションを見ながら旅を続けました。」
人々のリアルな生きざまを見て、強烈に感じたのは、「日本の豊かさ」だったそうです。
「世界の中だと、自分が相当恵まれた環境にいることに気づかされました。だから、世界の水準の真ん中くらいに自分の生活水準を設定すれば、日本だけで見れば低いんだけれど、世界で見ればけっこういいほうだってことになるなと思って。」
贅沢、平和、便利といったものが、空気のように当たり前の存在だった過去。そこから決別したのりおさんは、国内で問題になりつつあった「空き家」に着目しました。
「帰国して、いろんな人に『空き家に住みたい』って話をして回ったんです。そうしたら、最初に愛知県津島市の空き家を紹介してもらって。大家さんと一緒に改修しながら、1年くらい住まわせてもらいました。その後、岐阜県の中津川市の古民家で一冬過ごして、そのほかにもちょこちょこと滞在して、北茨城に来たのは2017年の春のことです。」
そして、北茨城市へ
それまでは「空き家を転々とする生活を続けよう」という思いで行動していたのりおさん。なぜ、定住を前提とした「地域おこし協力隊」として、茨城へ移り住むことを決めたでしょうか。
「やっぱり、『アートで仕事ができる』というのがすごく貴重だと思ったんです。アートが必要とされる場所って、日本にはあんまり無いんですよ。だからこそ、そういう場所に行って、自分がどう答えられるかを試してみたかったんです。それから、漠然としたイメージなんですが、北茨城は自分にとって『近い』場所だったんです。多分、自分が生まれ育った東京との距離感だと思うんですけれど、津島や中津川だと、やっぱりなんか『遠い』という感覚があったんですが、北茨城はちょうどいい距離感だったんです。」
今でも、東京に行くことは多いのでしょうか?
「だいたい、月に1回くらいは行っています。仕事の場合も、趣味の場合もありますけれど。でも、飛行機や新幹線を使うような場所だったら、そんなに行かないと思うんです。よっぽど大きな仕事じゃないと赤字になっちゃいますしね。東京との行き来が負担なくできて、北茨城はすごくバランスがいいところですよね。」
不便さはクリエイティブの力になる
現在、北茨城に来て1年半。自宅は市内のほかの場所に持ち、「ARIGATEE」は、アトリエ兼ギャラリーとして利用しながら、今も改修を進めています。
「自分が旅から帰ってきてやってきたのが空き家の修復だったので、まずはそこから始めています。この『ARIGATEE』は築150年の民家で、もともとは有賀さんという方が住んでいたんですが、今は北茨城市が所有してます。僕らはそこに管理人のような形で入って、アトリエとして使いながら改修をしているという感じですね。将来的には、県外の人が北茨城を体験したり、アーティストが一時滞在して創作活動をできるような場所として、活用していく予定です。」
取材に訪れた日にも、「ARIGATEE」にはアイルランド出身のアーティスト、トムさんが滞在して、立体創作に取り組んでいました。「僕も彼から立体造形を教えてもらったので、ここで何かインスピレーションを得て帰ってもらえたらな、と思っています」とのりおさん。アーティストにとってこういった自然豊かなロケーションは、どんなメリットがあるのでしょうか。
「やっぱり、“自分のペース”が作れるっていうのは大きいですね。僕の場合は創作と生活がひとつになっているので、日々の生活の中に、どれだけ自分が集中できる時間を持てるか、ということが大事になってくるんです。東京にいると、気になることが多くて、ついついいろんな誘惑に負けちゃうんですけれど、ここだとそういう誘惑を断ち切れますからね。」
「それから、『モノが手に入りにくい』っていうのも、実はメリットだと思うんです。赤が無いって時に、都会だとすぐ買いに行けちゃうじゃないですか。でも、ここにいたら、赤がなければ自分で作るとか、『青でもいいじゃん』みたいな感じになれますから、無いなら無いなり工夫をするようになるんです。」
無いものは作る、足りない部分は工夫する。のりおさんにとって「何も無い田舎」は、アーティストとしての底力が試される場所でもあるようです。
「僕らの場合は、『そこにある環境から、インスパイアされてものを作る』というのが基本的なスタイルなんです。すごく簡単にいえば、絵日記みたいなものですね。なので、環境はすごく大事なんです。都会の雑踏にいればどうしても、何かに対する怒りみたいな作品になっちゃうと思うんですけれど、ここでは、自然な色で、ここにある風景を描けるんです。とにかく『自分が気持ちいい環境』で活動できるということが嬉しいですね。」
田舎に来て作風が広がった
自由な環境は、脳みそさえも柔らかくしてくれる。この大自然の中で「アートとは何なのか」ということ改めて考えたのりおさん。その答えは、いまの「檻之汰鷲」のキャッチコピーである「生きる芸術」という言葉に凝縮されている。
「こっちに来てから、創作活動の範囲はどんどん広がっています。結局のところ、生きるための技術は、すべて芸術だと思うんです。だから自分にとっては、家を改修することも芸術だし、今年の夏には、市内にある二ツ島という島までペットボトルの筏(いかだ)で渡りましたけれど、それも芸術であり作品だと思っています。人間の文化って、あまりにも情報に頼りすぎて、誰かが『面白い』って言っているから『面白いんだ』と思っている人も多いと思うんです。でも、情報になっていない面白さって沢山あるんです。作品を通して、そういうものを伝えていきたいですね。」
「東京のギャラリーで神妙な顔で絵を眺める人たちよりも、ここで日々土に触れて、空を眺めている人達のほうが、感性が鋭いのだと思う」とも話していたのりおさん。これもまた、北茨城市がアーティストたちを魅了する秘密のひとつなのでしょう。
北茨城に住みながら、芸術で食べ続けていきたい
現在は市から給料をもらいながら、古民家再生や創作活動を行う二人。今後、古民家の改修を終えた後については、どんな生活を考えているのでしょうか。
「僕はここに来て、自然がすごい好きになったので、これからも自然をモチーフにした絵を描いていきたいです。それが自分にとって、すごく精神衛生上いいんです。『自然をなにか別のものに変えていく』のがアートの原点なんじゃないかな、とも思いますしね。当面の課題は『自分でマーケットを作る』ことです。流通の仕組みを作って、必要としているところに届けて、商売にしていく。そこを追求していきたいですね。」
のりおさんの持論は、「アートは第一次産業である」。農業や漁業と同じように、自然の中から取り出して、必要とされるところに届ける。それがアートの本来の姿なのではないか、ということです。
「日本だと、絵を描いている人がお金の話をすると変だと思われてしまうんですけれど、そうじゃないんです。芸術は芸術だけで切り分けすぎていて、孤立してしまっているんです。そうじゃなくて、野菜と同じように、生活の延長上に『絵を売る』という行為があってもいいんじゃないかと思うんです。」
「アートに余計な説明はいらないんですよ。『すごい』『すてき』『ほしい』とか、それでいいと思うんです。そういうことを伝えられるような活動を、この北茨城市を拠点にして、やっていきたいですね。」
北茨城をバスで巡り、ARIGATEEの見学、古民家改修ワークショップ体験、石渡さんとの交流も!
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